イヴォ・ヴァン・ホーヴェ(Ivo van Hove)演出の舞台

 ベルギー出身演出家イヴォ・ヴァン・ホーヴェ(Ivo van Hove)の2017年11月の来日公演『オセロー』は見逃してしまった。今年の秋(9月)に、この演出家によるテネシー・ウィリアムズ作『ガラスの動物園(The Glass Menagerie)』の来日公演が、新国立劇場・中劇場で催されるとのこと、嬉しい限りである。しかも何と、母親アマンダ役に現代フランスを代表する(と言えるだろう)女優イザベル・ユペールが出演する。このチケットだけは外せない。

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 テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』は、好きな作品である。1983年5月ミルウォーキー・レパートリー・シアターの来日公演、新宿シアターアプルにて、ジョン・ディロン(John Dillon)演出の舞台を観ている。感動的な芝居であった。イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出の『ガラスの動物園』はどうか、いまから期待に胸おどる心境である。
 イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出のオペラ『サロメ』(2017年6月オランダ国立歌劇場公演)の輸入DVDを、タワーレコードオンラインショップで購入、本日セブンイレブン店頭で受け取った。これも愉しみ。

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バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)没後50年

 バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)が亡くなって(1970年2/2没)、本日の命日で50年になる。高校1年の時の英語の副読本で、ラッセルの著作が使われ、担当の H先生が、「キルケゴールハイデッガーを実存哲学という哲学史的カテゴリーでかんたんに括ってはいけない。まるで違う」という趣旨のエッセイをどこかで発表する、哲学者タイプの英語教師だったので、たんなる英文解釈(読解)で止まらない深さを感じる授業を体験したものであった。ラッセルの平和論についてH先生は批判的であり、後に福田恆存の『現代の悪魔』を読んだ際すんなり(?)読めたのも、いまにして思えばそのためかと。
 ラッセルの『西洋哲学史』は、わが学んだいくつかの哲学史概説の一つである。

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庭の福寿草

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 エアコンがクリーニングのサインである音を発したので、3月の陽気とかいうテレビの天気予報を信頼し、前面パネルを外してフィルターほかほどほどに清掃して、さてパネルを取り付けようと試みるもうまくいかない。そのうち首が痛くなってきてしまった。寒波が襲うのは5日(木)以降らしいので、それまでに何とか解決しないと。
 庭に出てみると、福寿草が咲いていた。立春が近いのを察知しているのだ。さすがである。白梅は一輪だけ花が開いている。終日このパネル取り付けに悪戦苦闘しそうである。

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文京区湯島の老舗江知勝閉店

 

十三代目片岡仁左衛門の舞台

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   十三代目片岡仁左衛門の舞台は、1985年4月16日歌舞伎座での十二代目市川團十郎襲名(披露)興行夜の部、『助六由縁江戸櫻』髭の意休役で観ている。なお1962年4月の十一代目市川團十郎襲名興行の夜の部『助六由縁江戸櫻』髭の意休役は、わが贔屓だった坂東簑助(後の八代目坂東三津五郎)で、この舞台も少年時代に母のお伴で観ている。今年の襲名興行も愉しみである。

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スーパーマンとウルトラマンあるいはジェリー・シーゲルと金城哲夫

blog.livedoor.jp   今日は、「スーパーマン」の原作者ジェリー・シーゲルJerry Siegel)の命日(1996年1/28没)である。昔少年のころ、白黒テレビの番組で熱心に観た番組の一つであった。その原作者ジェリー・シーゲルは、作画担当のジョセフ・シャスター(Joseph Shuster)とともにユダヤアメリカ人であるとのこと。惑星クリンプトンから逃れて地球に辿り着いたスーパーマンは、エジプト王の追及を逃れて籠に入れて隠された幼子モーセの話と酷似している、とこの記事は述べている。

 スーパーマンが世に登場したのは1938年だ。ナチス・ドイツユダヤ人虐殺がが静かに進行してきた時代に、シーゲルはスーパーマンのアイデアを得たのではないか。ユダヤ民族が自分たちの民族を救ってくれるスーパーマンのような存在を願っていた時代だ。

  さらに、バットマンスパイダーマンの原作者も、ユダヤ系の人たちであるそうである。「スーパーヒーローを生み出した原作者にユダヤ系が多いのは、ユダヤ民族の血の中にスーパーマンのようなメシアの到来を願うDNAが潜んでいるからではないだろうか」と結んでいて、興味深かかった。
 思い起こされるのは、日本のスーパーヒーロー、ウルトラマンウルトラセブンの「ウルトラ」シリーズを監修した金城哲夫のことである。沖縄出身の金城哲夫アイデンティティーをめぐる葛藤が、「ウルトラ」シリーズの世界観に反映しているのではないか、という問題である。
 与那覇潤氏は、『日本人はなぜ存在するか』(集英社インターナショナル)で述べている。 

那覇潤氏は、この書第4章『「日本民族」とは誰のことか』のところで、沖縄の人々のアイデンティティについて考察している。沖縄の文化も日本の文化の一つであるから尊重されるべきであるとの考えを核とした、伊波普猷(ふゆう)の「日琉同祖論」を紹介し、「はたしてその路線は、正しかったのか。その帰結を知っている私たちは、悩まずにはいられません」と述べている。そして沖縄出身の金城哲夫のことをとり上げる。彼は、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の「ウルトラ」シリーズを監修した人。宇宙人と地球人とのアイデンティティに悩むウルトラマン(防衛隊員)は、「沖縄出身だった金城ならではの思想や葛藤が反映していることが知られています」。

 与那覇氏によれば、「平成のウルトラマン」シリーズでは、ウルトラマンは最終回を待たず、みずからの正体を明かし、それを知り他の隊員たちもしごく普通に 一緒に戦うところに、沖縄人のアイデンティティーをめぐる葛藤が(現実を反映して)消えているとのことであるが、さてそうであるのか、「ナイチャー」のこちらにはわからない。

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いちごのスイーツ

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 昨日は、世田谷三軒茶屋での芝居見物の帰路、津田沼駅隣接のデニーズで生姜焼き膳の夕食を摂り、デザートにとちおとめのミルクプリン=ミニパルフェをいただいた。なかなか。とちおとめの納まり具合が悪く、スプーンで一つ取ろうとしたところ、テーブルに転がしてしまった。

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 今日は、昨日ローソンに立ち寄り購入した、とろけるクリームの苺ショートを午前のコーヒータイムにいただいた。これは生クリームが充実していて、スーパーの同種のものより断然美味しい。むろんお気に入りの厚焼きスフレ パンケーキも一緒に買ってあって、冷凍庫に待機している。

杉原邦生演出の『少女仮面』が今年最初の観劇

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 昨日1/26(日)は、世田谷三軒茶屋シアタートラムにてマチネー公演、唐十郎作、杉原邦生演出・美術の『少女仮面』を観劇。春日野八千代若村麻由美、貝=木崎ゆりあのキャスティング。この作品は、1982年7月渋谷パルコ3・SPACE PART3で、小林勝也演出、春日野八千代渡辺えり子(現・えり)、貝=森下愛子の舞台を観ている。その時は、渡辺えり子が上半身裸になる熱演で、今回も、森下ベニサン・ピットで昔裸身を晒している若村麻由美が同じく妖艶なヌードの肉体を観せるのかと、開演前から緊張していたが、「俺の肉体はどこに行ってしまった!?」という台詞を放つ幕切れまで、服を脱ぐことはなかったのであった。うーん、残念。
 大杉栄伊藤野枝夫妻虐殺の責任者〈甘粕大尉〉が、春日野八千代入院中の満洲の精神病院に現われるが、演じ続ける〈自由な〉肉体が観客の視線によって朽ち果てるとともに、〈自由な〉肉体一般は権力によって物理的に抹殺される歴史的現実もあることを暗示していよう。腹話術の人形がいつか逆転して、腹話術師を人形として扱うに至る挿入されたエピソードも、誰かのために演じ続ける肉体はいずれ抜け殻=人形と成り行く事態を示している。 
 わが贔屓のフランスの女優ソフィー・マルソーが、みずからの小説で主人公に託して書いた述懐も、この作品の主題と重なろう。

 ……その幻の世界では、なにを話しても、文字遊びのようにどんどん点数が加算され、世界が危険なまでに活性化していく。そこでは〈人間〉と〈英雄〉が同一視され、誰もが〈私〉と〈彼〉のあいだをふらふらと行き来する。この世界から逃れるには、お酒で酩酊するか、戦士や狂人になるか、魔法使いになって陶酔しながら炭の上を歩き、踊りながら奇跡を願うしかない。この仮想世界では、人間の精神は、恐ろしいほどに陽気で、とらえどころがない。/人は幻の世界に入りこむと、魅力的な知性をもった、絶対になびくことのない悪魔に心を奪われ、不可能を追いかけてしまう。しかし、それで得ることができるのは、指に引っかかった数本の金髪と、肌色のガーゼのようにもろい蠅の脚ぐらい。……(『うそをつく女』金子ゆき子訳・草思社

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