「ユダヤ人は俺が奴等を殺しに行かない事に感謝すべきだ」
— Erected Official (@OfficialErected) 2024年4月27日
学生や教員のユダヤヘイトを野放しにし、キャンパス内のユダヤヘイトを全面に出し切っているコロンビア大学の学生がSNSにコメントを載せて大炎上。大学から退学処分を喰らう。 https://t.co/cTyzoeIjzc
ハマス創始者の息子のモサブがガザの子供がなぜ沢山死ぬか説明しています。沢山子供が死ぬと沢山お金が入るからです。なぜか疑問詞はつけない報道達ですが、武装拠点に絞って攻撃しているのに、なぜそこに多くの子供がいるかということです。多くのメディアは全て知っていても言いたくないのです。 https://t.co/2XQ8AcMMS7
— Geffen (@kaoren3) 2024年4月25日
この学生たち、バカなんだと思うね。なんで自分たちの自由や権利を奪うモノを崇めるのかな。 https://t.co/n4NKFwxejQ
— buvery (@buvery) 2024年4月24日
狂ってる…。
— 蘭子 兰子 란코 รานโก 🎗🇮🇱 💚🤍懸垂10回をクリアしたい香港迷/香港粥 (@maki2260) 2024年4月22日
>🚨コロンビア大学は、反ユダヤ主義のハマス支持者をキャンパスから排除する代わりに、彼らの憎悪に立ち向かう唯一のユダヤ人教授を排除しようとしている。 https://t.co/7bA1ZBUxHi
もう卒業式にも来たくないというコロンビア大学のユダヤ人学生。いつも言われる「インクルーシブネス」が如何に都合の良いコンセプトか分かる。「私たちが認める人達が輪に入れられたと感じることが大事」という事か。左派による差別は社会的認識が低いから保守の差別よりタチが悪い。 https://t.co/SZ6xN9H4jP
— Erected Official (@OfficialErected) 2024年4月23日
アメリカの大学に行くとみんな民主党支持になるのは
— Kan Nishida 🇺🇸❤️🇯🇵 (@KanAugust) 2024年4月8日
教授のほとんどが民主党支持だから。
異様な世界です。 pic.twitter.com/sc7mujRwQ3
パリ政治学院
— ulala フランス在住の著述家 (@ulala_go) 2024年4月26日
4月25日木曜日の夜、親パレスチナの学生に大学の新しい建物が占拠された
彼らは学校で数日間寝る予定pic.twitter.com/4SQyXyYeiR
目を覚まさせられる記事。
— ユダヤ人と日本 / Jews and Japan (@JewsandJapan) 2024年4月27日
今回表面化した若者の過激な反イスラエル活動は突然起こったのではなく、パレスチナ側が年月をかけて行ってきたPRキャンペーンの成果。ユダヤ人やイスラエル側はそれを理解した上で、ばらばらではなく統合された新しい対応が必要。https://t.co/CzPkA8JsEE
この人が一体何をしたんだろう?
— a_KatzeMeister (@KatzeATL900) 2024年4月29日
ただ歩いていただけで、ユダヤ人というだけで攻撃されるの?
この女、獣かっ!? https://t.co/FmbhvNL0rf
simmel20.hatenablog.com
▼わがHP(09年12/10)で、中島義道氏の『差別感情の哲学』(講談社)について記述したことがある.この書には、通俗的理解や、「差別撤廃活動家」の〈専門的〉かつ〈先端的〉議論では汲み尽くせない考察がある。少し整理して再録しておきたい.
中島義道氏の『差別感情の哲学』(講談社)は、差別の制度あるいは慣行にではなく、それらの是正の努力や必要を認めつつも、心の内なる差別、つまり差別感情に、考察をむけた書である。人の世からあらゆる差別を根絶しようとする〈狂信的〉な〈善意〉の運動は、社会から活力を奪い文化を貧しくさせるだろうし、そもそも無理な目標である。差別感情という人間にとってやっかいで困難な心の問題こそ、根源に存在するからである。『旧約聖書』の神に試されるアブラハムや『福音書』のイエスに限りなく近いところで、しかも自身の体験を踏まえながら、人間にとっての誠実性や悪の問題を、信仰の手前で徹底的に考究している。ここでもカントの徒としての氏の妥協のなさが貫かれていて、知らずもしくは知らないことにして、差別に加担してしまっている日常の〈普通〉さに埋没する倫理的な弛緩を痛打される。
差別感情の感情とは、個々の体験を通じてあらわれるとしても、その感情は「恒久的」なもので個々の体験・意識を超越したものであり、差別感情の対象は「嫌うべき超越的対象」としてとらえられてしまっているのだと、サルトルの憎悪論を援用して説いている。
『ユダヤ人差別や被差別部落など歴史的・文化的に背景をもつ差別の場合、彼らに嫌悪を覚えるにしても、かぎりなく個人的感情から離れていることが多い。われわれは、その差別感情を学ぶのであり、それを確固としたものに築き上げていくのである。』
しかし「被差別部落など歴史的・文化的に背景をもつ差別」は、差別撤廃の運動の成果などもあり、時間の推移とともに緩和・消失していくだろう。中島氏をmysogynist(女嫌い)で、「赤裸々にすべてを語っているように見えて」「肝心なことが抜けている。だから信用できないのだ」(ブログ)と糾弾する作家・比較文学者小谷野敦氏は、「鶴の巣や場所もあろうに穢多の家」と詠んだ正岡子規を嫌っているようだが、このような制度的歴史的差別は弱まってきているだろう。中島氏は、差別的感情を、「他人に対する否定的感情」である、不快・嫌悪・軽蔑・恐怖と、「自分に対する肯定的感情」である、誇り・自尊心・帰属意識・向上心とに一応分類し、それぞれ考察している。とくに現代における本質的差別の根幹に肉薄したところは首肯できる議論である。
『(西洋型)近代社会の残酷さは、「個人主義」という名のもとに、各個人の知的・肉体的能力の差異を認めたうえで、フェアな戦いを要求することである。フェアに戦えば、もともと能力の優れている者が勝つこと、能力の優れていない者が負けることは当たり前であるが、あらゆる差別に対して神経を尖らせながら、こうした能力差別については問題提起しない。』
ここから生まれる「些細な問題」の積み重ねに、多くの人間は絶望し、ときには犯罪にまで走ることもあるかもしれない。純文学としての小説がこの問題をスルーして、「花園」での〈脱俗的〉営為で自己完結している限りでは見放されるのも仕方あるまい。中島氏は、差別してはならないとの理念を見据えて、しかし自己欺瞞的な自己肯定に収斂しない生き方として、「自己批判精神」と「繊細な精神」をもって、たえず自らの内面=心を点検することを促している。▼