マーヒーヤとフウィーヤ

 井筒俊彦「意識と本質Ⅱ」(岩波文庫『意識と本質』)の後半。イスラーム哲学の術語でいえば、いまここに現前するXを「切れば血のほとばしる実在性において存在させているもの」は「フウィーヤ」=個体的リアリティーだけで、「マーヒーヤ」は、その実在性を剥奪して抽象化した概念にすぎないという見方が一方にある。もう一方は、西洋ではプラトニストを典型とし、東洋では、「事」にたいして「理」を重んじる人たちがみなあてはまり、普遍的「本質」こそ個物を個物として具体的、個体的に成立させる存在根拠であると考える。イスラーム哲学史においては、アヴィセンナ(イブン・スィーナー)は、普遍的「本質」のなお先に、「本性(タビーア)」なるものを措定し、これは普遍的でも個体的でもないとし、「馬であることは馬であること、ただそれだけ」の文句を残した。
 「素朴な一読者として」と断ってフッサール現象学に言及し、そこで本質直観的に把握した「本質」は、「究極的にはマーヒーヤだったのだろうか、フウィーヤだったのだろうか、と戸惑うのである」と述べている。メルロー・ポンティは、フッサールの本質直観は、「コトバが語りだす以前、もの自体が前言語的に語ろうとしている何かを前言語分節的意識で受けとめて、そこにありありと現前させること」であるとして、現実遊離の抽象性から救出しようと努力している. 
……だが、このように考えることは、コトバの意味分節機能を軽視しすぎることになりはしないだろうか。(略)コトバの意味分節機能、すなわち仏教のいわゆる「妄念」の働きは意外に執拗で、意外に根深い。それはたんにわれわれの表層意識にいろいろな名前を通じて定着されている普遍的「本質」の働きを支配するだけでなく、いわば意味的アラヤ識とでもいうべき形でわれわれの深層意識の構造まで規定している。アラヤ識に「熏習」された意味的単位の「種子」は、われわれの意識が深層領域でゆらめけば、たちまち「本質」喚起的に働き出す。表層意識に「本質」がまだ現われていないからといって、それだけで言語以前ということはできない。……(同書pp.49~50)
 ここで「即物的直視」を事とした東西二人の詩人の本質論に論を進める。二人とは、リルケ芭蕉である。リルケは、頂点に表層意識、底辺に「内部の深層次元」を配置する「意識のピラミッド」を構想し、事物の真の内的リアリティーは、表層意識つまり「…の意識」の対象としては捕捉できず、「内部の深層次元」においてのみ、ものは本来のリアリティー=フウィーヤを開示するのだと主張している。このもののフウィーヤをあらためて言語化、すなわち非分節的に分節し出さなければならないところに、詩人の言い知れぬ苦悩があるといえるのである。
 和歌のコトバとは、マーヒーヤの顕在的認知に基づくコトバである。『古今集』に典型的形態をみる和歌の世界とは、『一切の事物、事象が、それぞれの普遍的「本質」において定着された世界だ。春は春、花は花、恋は恋、というふうに自然界のあらゆる事物、事象から人事百般まで、存在界がくまなく普遍「本質」的に規定され、その上でそれらのものの間に「本質」的聯関の網目構造が立てられる』。「本質」的事物の、ぎっしり隙間なく充満する「マンダラ的存在風景」に対しては、「ながめ暮らす心」によってこれを弱める詩的意識が生まれている。「ながむれば我が心さへはてもなく、行くへも知らぬ月の影かな」(式子内親王)。芭蕉は、マーヒーヤは『古今集』的に、経験的事物の表層にそのまま顕在するものとは考えず、また「眺め」意識でマーヒーヤを「おぼめか」そうともしなかった。(※おぼめく:はっきりしない感じをもつ。集英社『国語辞典』)
……「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と門弟に教えた芭蕉は、「本質」論の見地からすれば、事物の普遍的「本質」、マーヒーヤ、の実在を信じる人であった。だが、この普遍的「本質」を普遍的実在のままではなく、個物の個的実在性として直観すべきことを彼は説いた。言いかえれば、マーヒーヤのフウィーヤへの転換を問題とした。マーヒーヤが突如としてフウィーヤに転成する瞬間がある。この「本質」の次元転換の微妙な瞬間は間髪を容れず詩的言語に結晶する。俳句とは、芭蕉にとって、実存的緊迫に充ちたこの瞬間のポエジーであった。……(同書p.57)
「意識と本質Ⅱ」読了。わが家の庭の柿の実も熟しつつある。一つもいで食べてみた。甘い。今年は愉しめそうである。

 里ふりて柿の木もたぬ家もなし 
           中村俊定校注『芭蕉俳句集』(岩波文庫
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のペンタス。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆