イスラーム哲学における因果律と原子論

 井筒俊彦「意識と本質Ⅴ」(岩波文庫『意識と本質』)では、「本質(マーヒーヤ)」肯定論の第2、第3のタイプについての考察を保留し、「意識はいろいろ違った仕方で意識であり得る」とのメルロー・ポンティのことばを冒頭に紹介し、この命題解釈について、垂直的方向への展開と水平的な方向への展開の可能性を指摘する。表層意識と、無意識および禅の説く〈無〉意識をも含む深層意識およびその二つの有機的連関を追求する垂直的方向で考えるのではなく、水平的方向、つまり文化的パラダイムに色付けされた意識のあり方として捉え、それによって「本質」をめぐるどのような問題性がバリエーションとして生じたかを考究している。イスラームの文化意識とは、『コーラン』に形象化されて現われる絶対的一神を中心に据えた意識であり、この意識を「離れては真にイスラーム的といえるような哲学もなければ存在論もない」。
 とり上げられるのは、初期イスラーム哲学史を彩る「原子論」論争、即ち、因果律論と原子論の対立である。イスラームの思想家たちがアリストテレスから学んだ第一のものが、因果律的思考法であった。因果律的存在理解とは、ある条件の下で物事には必ず原因となるものがあって、その作用の結果として生起すると捉えることである。このことは、ものにはものの「本質」があるという把握が前提になければならない。例えば火が紙を燃やすのは、火には火だけに固有のものを燃やすという「本質」が備わっていると考えられるからである。かくして『因果律の支配する世界とは、一切の事物がそれぞれ自分の「本質」をもち、自分の「本質」によって規定され、限界付けられ、固定されている世界でなければならない』。極限的には、たった一つの例外もあり得ない、つまり偶然性の完全に否定される世界ということになる。イスラームの原子論者からは、批判される。
……第一、個々の事物が己れの「本質」をもち、その「本質」の指令によって己れ固有の作用力を発揮するという考え方自体、神の全能性を撥無(はつむ※否定排除すること)するものでなくてなんだろう。すべての事物が、それぞれ「本質」をもち、その「本質」に促されて作用するものとすれば、わざわざ外から神に働きかけてもらう必要は、まったくない。……(同書p.109)
 原子論は、一定不変の性質ないし属性をもっていない分割不可能な実体である原子の集合によって、経験的事物の世界を捉え、一切存在者の無作用性、無力性の上に立って経験界における因果律の無効を主張したのである。
 原子論を大成した12世紀のガザーリームハンマド・アル・ガザーリー)は、因果律を否定した偶然性の哲学を展開した。火に触れた紙が燃えるのは、そういう自然的慣習があるからであり、その慣習は、神が「かくあれ!」としているからにほかならない。「慣習はいつでも破られる。つまり奇跡はいつでも起り得る」ということになる。神の瞬間的創造によって「この偶然性の世界がとにもかくにも事実上秩序を保持し存続している」と説くのである。
 これに対してイスラーム思想界きってのアリストテレス主義者アヴェロイス(イブン・ロシド)は、因果律を否定することは、事物の「本質」を否定することであり、ただちに一切の知識の可能性の絶対的否定につながる無条件的な不可知論であるとした。なぜなら「知り得るもの」とはそれの原因を明示しうるものの謂であり、「知り得ないもの」とは、それの原因がまったく指摘できないものを意味するからである。すべての事物の可知性の根拠こそ因果律の実在性なのであるとした。「存在」することは「働く」ことであり、「働く」ことは存在することである。すべての存在者は必ずそれ自身の能動的作用性をもち、その作用性の源がそのものの「本質」と考えるわけである。
……神のfiat(※かくあれ!)の絶対性、すなわち神の全能性を誤った形で尊ぶあまり、原子論者たちはこうして存在の本源的偶然性を主張するに至る。その結末は不可知論。不可知論に陥ることによって、彼らは彼らは人間の尊厳を傷つけるばかりでなく、世界をそのようなものとして創った神を冒瀆する。もし神の摂理を考えたいのなら、あらゆる事物の一々にそれぞれの「本質」を与え、事物それ自体に内蔵されたロゴスから発出する作用を通じて因果律的に規定された整然たるコスモスとして世界を創った神の配慮のうちにこそその叡智に満ちた摂理を見るべきである、と。……(同書p.115)
 アヴェロイスの考え方に従えば、神によって一旦創造されたこの世界は、神の意志を離れ、己れ自身の内在的ロゴスの指示するままに作用・展開していくことになり、そこでは神の自由意志の介入する余地がなくなってしまう、という危険性が原子論者たちがつとに意識したところである。
「本質」の有無をめぐる議論が重大な思想的事態を惹起していること、また文化意識のあり方によって「本質」の問題性もさまざまに変わることがわかるのである。「意識と本質Ⅴ」読了。