「元型」的「本質」とは

 
 井筒俊彦「意識と本質Ⅸ」(岩波文庫『意識と本質』)では、存在を分節し、事物を類別する普遍的「本質」でありながら、普通の「本質」とは似ても似つかぬ「元型」的「本質」について、とくに古代中国の「易」を典型として考察している。
……個々の事物を個々の事物としてではなく、その「元型」において把握するということは、事物をその存在根源的「本質」において見るということにほかならない。「元型」は「本質」である。だが、それが深層意識に、「想像的」イマージュとして自己を開示する「本質」であるところに特徴がある。……(同書p.206)
「元型」はユングに従えば、「集団的無意識」または「文化的無意識」の深みにひそむ、一定の方向性をもった深層意識的潜在エネルギーで、人間の深層意識空間に「元型」イマージュとなって不断に自己を顕現するのである。しかし同じ一つの「元型」であっても、文化ごとに顕現形態も異なり、また同一文化の圏内でも、「多くの違ったイマージュとなって現われる」。「複数のイマージュ群」の底に一つの「元型」的方向性を人は感得し、それによってつながれたイマージュ群が、存在を特殊な形で分節し、その分節圏内に入ってくる一群の事物の「本質」を象徴的に呈示するのである。プラトンイデア的「本質」とはまるで違った性質の「本質」である。
 古代中国の「易」の全体構造は、天地の間にひろがる存在世界の「元型」的真相を、象徴的に形象化して呈示する一つの巨大なイマージュ的記号体系となっている。『周易』「繋辞伝」においては、八つの「元型」的「本質」すなわち八卦によって、一切の存在者を類別し秩序付けたとしている。この八卦は、事物の客観的、分析的観察から帰納的に抽出された普遍的「本質」ではない。広い意味でのシャマン的意識に直結した聖人の意識には、「元型」的秩序の象徴性が見えているのである。
 たとえば「易」の八卦の一つ「坤」という「元型」から生起するイマージュは、大地という根本的なイマージュのほかに、その性質の展開として母・布・釜・吝嗇・平等均一・子母牛(子牛をつれた母牛)・大輿・文(あや)・柄・黒がある。残りの七卦も同様で、「元型」は一つ、それを取り巻くイマージュは多様。その全体が存在のある特定の領域を限定し、分節する。この意味で「元型」は「本質」なのである。
 これまでの表層・深層という二重構造モデルでは、「元型」や「元型」イマージュの実相を的確に捉えるにはあまりにも単純すぎるので、深層意識領域を三つの領域(B・C・M)に分けてみる。 
(A:表層意識 B:言語アラヤ識の領域 C:無意識の領域 M:想像的イマージュの場所)
 チベット密教の専門家ラウフによれば、深層意識のイマージュ現象は、「元型」→「根源形象」→「シンボル」の継起的プロセスとして理解される。無意識領域に成立した「元型」が、「根源形象」すなわち「想像的」あるいは「元型」的イマージュとなって形象化する。この「元型」的イマージュは、経験界の現実の事態に対応した大抵のイマージュと異なり、原則として、外界に直接の対応物をもたない。たとえば仏教のイマージュ空間に咲く花は、現実の花に「似ている」だけであって、現実の花のじかのイマージュではない。だから「元型」イマージュは、言語アラヤ識から生起しても、経験的現実の世界に直結する表層意識まで上っていかない。いわば途中で止まってしまう。その途中の場所がM領域である。表層意識にそのまま出てきて記号に結晶したものがラウフの「シンボル」であるが、「元型」的イマージュの本来の場所は、あくまでM領域である。「天使、餓鬼、悪霊、怪物、怪獣どもがこのイマージュ空間を充たす。それらの大部分は表層意識には現われてこないし、また原則的には現われてこないことになっている」。
 シャマニズムや密教においてこの種のイマージュが本来の場所であるM領域での果たす役割、およびその性質、構造についての考察は次章。「意識と本質Ⅸ」読了。