「想像的」イマージュの世界

 井筒俊彦「意識と本質Ⅷ」(岩波文庫『意識と本質』)は、常識の立場からは異常なイマージュ(心象)体験の意識論的、存在論的意義を問い、「本質」論とのつながりを追求している。これまで迂回してきたが、有「本質」実在論の第二の型=元型的「本質」論について、シャマニズムを例の中心に考察するのがここでの主題である。人間の深層意識は、怪物たちが跳梁跋扈する場所であるとの書き出しで始まる。
……底の知れない沼のように、人間の意識は不気味なものだ。それは奇怪なものたちの棲息する世界。その深みに、一体、どんなものがひそみかくれているのか、本当は誰も知らない。そこから突然どんなものが立ち現われてくるか、誰にも予想できない。
 人間のこの内的深淵に棲む怪物たちは、時として—大抵は思いもかけない時に—妖しい心象(イマージュ)を放出する。そのイマージュの性質によって、人間の意識は一時的に天国にもなり、地獄にもなる。……(同書pp.180~181)
 我々が外的事物を、コトバの意味分節作用に基づいて認識・意識する場合、決して無媒介にそれを成立させているのではない。深層意識的空間である「言語アラヤ識」に潜在する意味「種子」が「表層意識に向って発動しだす時」、イマージュを喚起する。このイマージュの皮膜を通して我々は、外的事物を認知するのである。同じ言語を話す人の「言語アラヤ識」から湧出するそのもののイマージュには「圧倒的な共通形状があり、おのずから一定の型がそこに認められるのであって、その型が不変不動の実在として固定される時」、そのものの「本質」が成立する。我々の日常的意識は、こうした数限りないイマージュの点滅の場所であるが、その根源的イマージュ性は表面には現われてこない。このイマージュは、事物に密着していて即物的なものであるが、何かの契機で現実的事物との結合を離れたイマージュが突然出現することもある。進んだ状態では「瑞雲たなびく大空に美しい天女たちが飛びかい、あるいは地上に魑魅魍魎がうごめく」ような風景まで現われてくるのだ。幻想、妄想と片付けられるところだが、「東洋思想の精神的伝統では、この種のイマージュが屢々著しく重要な役割を担わされてきた」のである。シャマニズムが代表的一例で、密教も然り。
 常識的人間のイマージュ体験と根本的に違って、シャマニズムにおいては、表層意識から深層意識への推移が計画的、組織的に生まれている。『楚辞』に現われるシャマン的実存は、自我意識の三つの段階からなる意識構造体として考えられる。第一段階では、「自分が自己を取り巻く社会から完全に疎外されている、という痛切な自覚」をもつが、現実を遊離したイマージュのごときは問題となってはいない。第二段階では、シャマンに神がのりうつり、神自身が第一人称で語る神憑りの状態が持続した後神が去り、シャマンは人間的一人称に変わる。シャマンと神とは二個の独立したペルソナなのである。シャマンのこの過程での興奮状態が「想像的」イマージュに顕著な性格を与える。
……とにかく、具体的事物が現に目の前に実在していようと、いまいとそれには関わりなく、経験的存在の次元とは違った一つの別の次元で活動する特殊なイマージュが、トランス(あるいは半トランス)状態にあるシャマンの意識に、屢々現われてくるものだということを、私は指摘しておきたいのである。それらのイマージュは、経験的世界の現実に対して直接、第一次的な関係をもたない。だから、ここでは、山や水のように、外界に存在的根拠をもつ普通の事物も、もともと経験的現実に直接裏付けられていない神々や天人や妖鬼の類とまったく同資格で登場してくる。……(同書pp.193〜194)
 第三段階においては、「経験的世界の事物に纏綿する質料性の重みを感じさせるもの」のない、純然たる「想像的」イマージュの空間がシャマン意識そのものである。古代中国的シャマニズム理論にあっては、地に属する「魄」とは異なる魂(たましい)である、天に属し、人体に宿っては人の霊性を代表する「魂(こん)」が、このイマージュ体験の主体とされる。シャマン的主体である肉体を脱した「魂」が、天空を馳せめぐって、この世ならぬ「遠遊」つまり遥かなるイマージュ空間への遥かなる旅路を心ゆくまで楽しむのである。純粋イマージュの世界は、シャマニズム以外にも、西洋のグノーシス、東洋のタントラがある。老荘思想は、シャマニズムの哲学化としての性格をもっている。『荘子』冒頭の鵬の宇宙飛遊には、「シャマン的天空飛遊の絶えて知らぬ哲学的象徴性がある」。
 イスラームの神秘家スフラワルディーは、シャマン意識第三段階の「想像的」イマージュが見る、あるいは生きる世界を「形象的相似の世界」とし、「想像的」イマージュを哲学的に「質料性(あるいは経験的事実性)を離脱した似姿(アシュバーハ・ムジャッラダ)」と呼んでいる。この「似姿」を「宙に浮く比喩」とも呼んでいる。表面的には、質料性のないこれらのものは、経験的事物の存在的比喩でしかないとしながら、スフラワルディーの本音では、経験的事物の方こそ、存在的「比喩」とされるものの「比喩」でしかないということなのである。
……スフラワルディー—そして、より一般的に、シャマニズム、グノーシス密教などの精神的伝統を代表する人々—にとっては、我々のいわゆる現実世界の事物こそ、文字通り影のごとき存在者、影のまた影、にすぎない。存在性の真の重みは「比喩」の方にこそあるのだ。もしそうでないとしたら、「比喩」だけで構成されている、例えば、密教のマンダラ空間の、あの圧倒的な実在感をどう説明できるだろう。……(同書pp.203~204)
 スフラワルディーにとって、天使はたんなる心象としてではなく、存在の異次元において実在するのである。深層意識的イマージュである「想像的」イマージュと、「本質」論とのつながりは、それが人間の深層意識に事物の「元型(アーキタイプ)」を形象的に提示するところに成立する。「元型」の形象化として、事物の「元型」的「本質」を深層意識的に露顕させるのである。「意識と本質Ⅷ」読了。