読書の挫折:木庭顕『クリティック再建のために』(講談社選書メチエ)

【まえがき】から

……まずは、このクリティックが発展してきたギリシャ以来の系譜を辿る。
 もちろん、クリティックが批判的な思考、ないし批判的な議論一般、と深い関係にあることも間違いない。様々な認識や価値観を鵜呑みにせず疑ってかかり、それらに簡単には従わない、という態度、あるいは鋭く対立する認識や見解を考慮するという態度、は明らかにクリティックの基礎にある。しかしクリティックが批判的思考一般に解消されるわけではない。何故ならば、クリティックは批判的な思考のさらなる前提のところにもう一段吟味の手続きを構築するからである。特定のことをすべきだと言い立てる人がいるとして、それに従わず、その論拠を糺し、反論する、ということは大切なことである。しかしさらに進んで、提出された論拠をデータを使って吟味し、また使われた概念の明晰度を疑う、言うなれば論拠の論拠を問う、そうして、それが正しいかどうか、それに従うべきかどうか、を論ずる前に入り口で失格させる、ということも極めて重要である。そうでなければ(論拠は提出されるとしても)双方勝手に論拠を出しあう立会い討論会か夜中の酒場の論争のようになってしまう。気が付くと矛盾する立場の方へずれ込み、意味不明に意気投合する。よく見かける酔っ払いと変わらなくなる。

 

 著者は、このクリティックの欠如が日本の近代の致命的な欠陥だとし、クリティックの起源と展開の系譜を、古代ギリシャから検討するのである。
 さて本編に入ると、難解でついていけなくなる。神話的思考がいかにして批判的思考に移行したのかについて、まずホメーロス叙事詩を取り上げる。人の行為の範型として働きうる、出来事のイメージをパラディクマという語で指示し、「パラディクマたる出来事のイメージには、実際には多くのヴァージョンがあり」、叙事詩は、「両極で対立するヴァージョンを抜き出し」「特定の過去の出来事、特定の物語にすぎない、というふりをしながら、実は森羅万象に相当する全てのパラディクマについてヴァージョン対抗極大化を実演して見せる」などと考察を進める。この後、パラディクマのサンタクティクな分節、パラディクマのパラディクマティクな作用、パラディクマのサンタグマティクな分節という議論になり、福来スズ子(否笠置シヅ子)の「買い物ブギ」ではないが、「何が何だかさっぱりわからず どれがどれやらさっぱりわからず」状態に陥ってしまった。これ以上の読書はムリと判断した次第。

          津田沼駅前通り花壇のムスカリの花