仲正昌樹金沢大学教授の『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(講談社現代新書)の第三章の最後には、『「アンティゴネー」をめぐる闘い 』と題する考察があって、大いに興味を惹かれる。従来の常識的理解では、ヘーゲルにおける実定法対自然法の相克の問題として扱われてきたかと思うが、そう単純ではないようである。共同体を成立せしめている人倫への侵犯が犯罪であるから、犯罪者もその周囲の人々も、犯罪行為によって、人倫を意識・自覚することになる。「いわば、犯罪は共同体を成り立たしめている人倫の境界線を意識化させ、共同体を再構成するという逆説的な働きをする」というのが、ヘーゲルの言わんとしていることなのである。なるほど首肯できる「逆説」である。
さらに物語に即して、国家=共同体の普遍的な法規範の本質について解読を進める。
家族の私的利益や慣習と、国家の公的利益と普遍的法を切り分け、可能であれば、前者を後者に従属させることは、「法」の主要な機能である。アンティゴネーは、単に共同体に対して罪を犯したというだけでなく、「法」の公共性の対抗原理である、家族の絆を代表する形で犯すことによって、「法」の本質を二重の意味で露わにしたことになる。
このようにアンティゴネーの行為を、本人の意志とは関係なく、「法」の普遍性を承認するものと理解する、ヘーゲルの解釈は哲学的には魅力的だが、フェミニズム的には、女性的なものを、非公共性の権化と見ることには異論があるだろう。バトラーは、『アンティゴネー』をポスト・フェミニズム的に読解することを試みた『アンティゴネーの主張』(2000)で反論を試みている。( p.194 )
バトラーによれば、 アンティゴネーが従おうとした「神々の法」とは、「エディプス的な理性の主体には理解しがたい、無意識の領域に押し込められていた、多様な性愛や家族関係を許容する“法”ではないかとし、
……ソフォクレスは、『エディプス王』で自分の父殺しと母との近親相姦を知って罰せられるエディプスの悲劇を描き、『コロノスのエディプス』で、死の直前のエディプスと、(その娘・息子であると共に妹・弟でもある)アンティゴネーやポリュネイケースとの関係性を描いている。ソフォクレスは、(近親相姦から産まれた)アンティゴネーの言動に、エディプス的な法が確立される“以前”の古き神々の法を呼び起こそうとする危ういものを感じていたのではないか。バトラーはそうやってヘーゲルに抗してヘーゲルの『アンティゴネー』読解を読むことで、脱エディプス的な倫理の可能性を示唆する。( pp.197~198 )