樹凋(しぼ)み葉落つる時—禅仏教の「本質」論

 井筒俊彦「意識と本質Ⅵ」(岩波文庫『意識と本質』)では、禅仏教における「本質」否定論を展開している。公案集からの問答が紹介されているので、知識として理解するのみでは限界があろう。ある一つの文化共同体でその共同体の言語を学んで育った人は、それを通して存在分節を学び、学ばれた「本質」体系は「文化的無意識」の領域に沈殿して、その人の現実認識を規制する。これを「言語アラヤ識」と著者は呼び、その深みから自然に生え出てくるとしか言いようもないような事物の「本質」的分節構造=経験的世界を毀すことは、経験的世界をカオスと化し、認識機能の喪失をもたらす危険がある。あえてこの危険を犯して、「存在の究極的真相」を体認しようとするのが、禅仏教の立場であるとする。
 古代インドの宗教哲学詩『バガヴァド・ギーター』の実在認識の根源的三様式をとり上げる。これは、サーンキヤ哲学の「三徳(原実在に始めから内在する三つの根源的存在展開的エネルギー)」説に基づいて、認識の三段階論を展開している。第一は「純質的」認識で全存在界を究極的一者性において眺める純粋叡知の煌々たる光、第二は「激質的」認識で現象的他者の間に動揺ただならぬ意識、第三は「闇質的」認識で愛憎に縛られた沈重な意識である。この東洋哲学的実在認識の一つのパタンともいえる段階論は、禅に当てはめれば、それぞれ、「無心」「有心」「執心」として現われる。「執心」とは、「特定の事物にたいする欲情的、妄執的な態度」を意味し、「根拠のない愛着の心」と否定的方向に走る場合の「憎悪の心」である。
……もともと人がある対象に愛着し、あるいは嫌悪を感じるのは、さまざまな事物が差別されて意識に映るからであり、事物が差別されるのは実在がさまざまな存在者として分節されるからである。この、リアリティーを分節的に、つまり個々別々のものとして見ることこそ、『バガヴァド・ギーター』のいう激質的認識なのである。つまり「執心」は「有心」の基盤の上にはじめて生起する、「有心」そのものの派生態にすぎない。……(同書p.123)
 好きだ嫌いだという執着さえなければ、「洞然明白(一点の曇りもなく、何もかもからっと透き通し)」と『信心銘』冒頭にあるが、これは「無心」の境位に顕現する存在の真相のことであり、この「無心」の境位と「執心」の境位の間には、意識の激質態=「有心」の境位が介在しているのである。禅の「心を擬する」とは、「本質」措定の操作を通じてはじめて成立する内的事態のことであり、「有心」の段階における分節的意識のことである。「存在はその究極処において絶対無分節者である」ことから、「心を擬する」ことは「至道」すなわち実在体験の究極の境位への「最大の障礙」となるのである。
 『楞伽経(りょうがきょう)』に意識の三相説がある。「真相」「業識(ごつしき)」「転識」の三つである。「真相」は、実在論的には真如無相、意識論的には絶対無分節的に実在を見る境地。「業識」は主・客の別が現われた、存在分節の初段階の境地。「転識」は我意識と独立した対象的事物の世界がそれぞれ確立する段階の、経験的意識のことで、すなわち「業識」を始点として、個々別々なものとして認知された事物の間を転々と動きまわる「妄覚」である。
 日常の正常な心の働き方としての「有心」=分節的意識では、「看るとき見えず、暗昏昏」であり、そのように事物を別々に分節して対象化し「…の意識」で見ようとしないとき、人々に自然にそなわる「光明」は存在をあるがままに照らし出すと『雲門』は説いている。 
……禅者の好んで引用する『維摩経』の一文、「無住の本より一切の法を立つ」はこの存在風景の構造を一言で喝破する。経験界、そこにあらゆるものが存在している。この点までは普通の見方と同じ。但し、それらのものの成立するのは、ひたすら「無住の本」よりである。無住、つまり依拠するところがない、もののものとしての存在根拠、すなわち「本質」がない。無「本質」でありながら、しかもそれぞれのものがそれぞれのものとして現象している。それが経験的世界だ、という。……(同書p.137)
『碧巌録』中の問答では、「樹凋(しぼ)み葉落つる時、如何」との問いに、師は「体露金風」と応じたそうである。「満天下寂寞たる秋景色。木は凋み、葉は落ち尽くして、目に立つものもない。䔥颯(しょうさつ※もの寂しく秋風が吹くこと)と吹き渡るこの無一物の荒野に、大樹がその体を露出する」ということで、全然「本質」に凝固させられることなく、絶対無分節の「本体」がそっくり露わになる、その瞬間にさまざまな事物として自己分節している、との詩的象徴のことばである。「意識と本質Ⅵ」読了。
 ※「無住の本より一切の法を立つ」は、「從無住本立一切法」。
 http://www.geocities.jp/tubamedou/Yuima/Yuima02b.htm(『維摩経』) 

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の秋のハイビスカス。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆