(わが所蔵の国産&アフリカ某共和国産の瓢箪)
第43回「毎日出版文化賞」受賞の『瓜と龍蛇』(福音館書店:1989年初版)で、編集委員の一人、大西廣氏(当時ニューヨーク大学教授)は、男が瓢箪で鮎(なまずの古語)を捕えようとするところを描いた、いわゆる「瓢鮎(ひょうねん)図」をめぐって、禅宗の教えを示したものとする有力な説に対して疑義を提示している。なかなか面白い。
……『古事記』や『日本書紀』の物語の中で、あるいは昔話の「蛇婿入り」の中で、蛇やみずちを退治するのに決定的な役割をはたす瓢箪。絵巻や近世初期あたりまでの風俗画の中で、なにやら方外の士といった感じの人物たちがきまってぶら下げている瓢箪。そしてあの、「一期(いちご)は夢」と踊り狂う、鉢たたきの瓢箪。…それら、つねに一種魔術的な雰囲気を漂わせながら、それでいてどこかしら見るものの笑いをさそわずにはおかない瓢箪のイメージが、瓢鮎図のそれとどう重なり合わさるのかが、ここでの問題である。……(同書p.411:「瓢鮎図と瓢箪の呪術性」)
http://d.hatena.ne.jp/consigliere/20110812/1313156936(「方外の士」とは『Cask Strength』)
鉢たたきとは、市聖=空也と捨聖=一遍の流れをくんで、瓢箪をたたいて念仏一筋のお勤めをしつつ町の中をまわった人たちのこと。その守り神「瓢(ふくべ)の神(しん)」(狂言の演目にある:未見)を祀るのは、北野天満宮の末社とも、松尾神社の末社とも伝承されているそうである。なぜ「手にしわざ」ある芸能民=鉢たたきが、瓢箪を「楽器」としたのかは不明であると、網野善彦氏は述べている。(同書pp.409〜410「鉢たたき」)
ともあれ、瓢箪に大いなる呪術的力が信じられていたのであろう。
夕がほや秋はいろいろの瓢(ふくべ)かな 芭蕉
ものひとつ瓢(ひさご)はかろきわが世哉 芭蕉
ゆふがほのそれは独髏(どくろ)か鉢たたき 蕪村
人の世に尻を居(す)ゑたるふくべ哉 蕪村
(夕顔は、食べる瓢箪の仲間の代表。)
※ブログタイトル中の「葫蘆」とは、昔坊さんが瓢箪を指した漢語。
作家葉山修平氏の『小説の方法』(東銀座出版社)において、拙作「瓢箪」について紹介していただいている。