平幹二朗の『王女メディア』観劇





 一昨日1/14(木)は、新宿百人町の東京グローブ座に赴き、平幹二朗主演の『王女メディア』を観劇した。JR新大久保駅から東京グローブ座に出向くのはひさしぶりのこと。いまは昔のシェイクスピア劇上演の芝居小屋ではなく、かのジャニーズ事務所傘下のリフォームされた劇場である。木張りの床を歩く音も聞こえず、喪失感を感じたが、円形劇場であることは変わりなく、懐かしさも覚えたことである。



 さて平幹二朗の『王女メディア』は、蜷川幸雄演出・高橋睦郎修辞の舞台が原型である。1978年日生劇場での初演のチケットを購入していながら、どうしても行けない事情が生じて観劇できなかった、無念の過去があった。高瀬久男(2015年6月逝去)演出を経て、今回、オペラ演出家、田尾下哲が演出している。振付にキミホ・ハルバートが参加し、コロス(女たち)の動きと所作に力と美しさが漂っていた。
「自分のテューモス(情念)にとらえられたメディアは、その歯車の進行をむなしく見ている以外に、自分で自分をどうすることもできない」(澁澤龍彦)。この舞台で、その復讐に突き進む嫉妬と憎しみのテューモスの底にある哀しみまでも表現し得たのも、明星大学教授・演劇評論家村上湛氏が世阿弥の「離見の見」の藝論を援用して、平幹二朗のメディアを論じていることと関連があるのだろうか。
……世阿弥は、「離見の見」によって「見所同心」(観客と同じ視座)を得るとした。役者が観客に迎合するのではない。批判力を内在させた観客の視点に立って「自分を客観的に見つめるドライな演劇的観念を養え」というのである。

 平幹二朗の演ずる王女メディアは「離見の見」の権化である。彼の演技に透徹する「すべてに通ずる抽象」こそ、その「離見」を支えるものだ。時代とともに歩み、時代を代表する個性であり続けた偉大な役者が、生涯を賭けて紡ぎ出したその解答を、われわれは再び驚異の目で見つめ直す機会を得ることができる。……(公演プログラムより)
 高橋睦郎の修辞(脚色)では、人名も地名も、神々の名称も固有名詞が消され、みな普通名詞となっている。メディアは妻、イアソンは夫、クレオンは領主、アイゲウスは隣国の太守、ゼウスは大空の親神さま、アプロディーテーは愛染の女神さまと呼ばれる。この惨劇の物語が、時代と場所を超えた普遍性をもっていることを強調したかったようである。特殊性に徹することでも普遍性は露となる。各名称をとくに普通名詞に置き換える必要もなかったかと思えた。
 コロス(女たち)の頭を、若松武史が演じていた。この人の声は好きである。平幹二朗の声と拮抗して、亡き演出家高瀬久男が述べたように、たしかに「声が今ある空気を震わすかぎり、今、現在を刺激し続けるのである」(公演プログラム)。コロス(女たち)が、長い赤い布を自在に踊らせる場面は美しかったが、かつて観たギリシャ国立劇場訪日公演(1999年6月)の『MEDEA』の舞台を思い起こさせた。
『メディア』は、上演機会も多いためだろうか、『オイディプス王』(2004年、平幹二朗演出・主演の公演を観ている)と並んで、我ながらよく観ているギリシア悲劇である。セネカ作の舞台も含めて、記録しておこう。


セネカ原作、渡辺守章訳・潤色・演出、冥の会公演、新宿紀伊國屋ホール、1975(昭和50)年7/19。


須永朝彦訳・台本、栗山昌良演出、坂東玉三郎主演(メディア)、日生劇場、1983(昭和58)年2月。




ギリシャ国立劇場訪日公演、新国立劇場オペラ劇場、1999(平成11)年6/29。

劇団ロマンチカ公演、林巻子作・演出、渋谷西武シードホール、1994(平成6)年12月。※異類婚姻譚の物語として面白かった。現ハンブルク・ドイツ劇場所属の原サチコさまのファンとなった。
 http://www.sophia.ac.jp/static/scs/sophian/sophian_15.html(「原サチコ:インタビュー」)


ク・ナウカ公演、宮城聡台本・演出、美加理主演(メディア)、上野国立博物館本館特別5室、2005年7/19。
◆7/19(月)上野国立博物館本館特別5室で観劇したク・ナウカ公演、宮城聡台本・演出の『王女メディア』は、ギリシア対アジアという対立図式を、明治近代の日本対中国・朝鮮に重ね、またそれを、男性=論理と、女性=感性および肉体性の対立図式に重ね、これを抑圧と隷属の関係として捉える考え方が基底にある芝居である。そしてドンデン返しとして、メディアの復讐劇の成就の直後虐げられていた女性たちが、隷従の着物を脱ぎ捨て真っ赤なキャミソール(?)姿で、男たちを刃にかけて息の根をとめることになる展開である。
 明治時代の歓楽街の茶屋とおぼしき座敷にて、仲居さんたちが男の客たちの要望で「王女メディア」の芝居を演じるという劇中劇の設定。ピランデルロ以来、劇中劇自体はめずらしくない演出である。ここでク・ナウカの、声と演技の役者を別にする独特の方法が生きてくる。男たちが謡か義太夫の冊子でも読むようにして台詞を語り、女性たちは、メディア役の美加理さんをはじめとして身体の演技をする。座敷の向こうで打楽器が時に応じて激しく演奏される。美加理さんは、韓国の巫女の身なりで、日常的動作と、神が憑依したらしい振る舞いとを、羽織った着物を着たり脱いだりの違いで演じ分けた。演出家は、述べている。
シャーマニズムが民衆的支持を受けつづけている韓国に対して、そうした呪術性を完全に排除した日本人が抱くこの二つの感情―軽蔑と畏怖―は、今日もなお消えることがありません。
 このように僕らは『王女メディア』に「近代」をめぐる二つの問題を見いだしました。近代化に伴って女性的なものがはっきりと男性的なものの下位に固定されるということ。そして近代化を先に成し遂げた国が周辺の地域に対して持つ抑圧性。』
 権力への志向と論理で押え込もうとする夫イアソンを、メディアは荒れ狂う自然性である、情念を持つ肉体性で立ち向かい制圧してしまうのである。役を降りて女性たちは、男たちを斬り殺す。その前に、「近代合理主義」の象徴である、棚の書物群が崩れ落ちてくる。圧巻である。一つの秩序の崩壊を見事に表現している。ところがオチのオチが用意されていて、幕開き前から舞台の隅でだるそうに存在していた老婆が、正面に出現していて、惨劇を冷ややかな眼で眺めるが、この老婆こそ2500年も生きつづけたメディアの成れの果てであり、「近代の超克」の物語は決して完成していないのである。視線の入れ子の構造をもったこの演出は見事というほかはない。
 しかし「近代」は近代批判を孕みながら歴史的展開を遂げてきたのであって、この反〈論理〉の芝居の構造自体がきわめて論理的に設(しつら)えられた世界といわなければなるまい。思想史的にも卓抜なる思索というものではなく、1920年刊行されたL.クラーゲスの論文集『人間と大地』(うぶすな書院)の「人間と大地」の思想はその先駆といえようか。
『人類は未曾有の荒廃の狂宴の虜になっている。「文明」とは鎖を解かれた殺意という特色に染められたものであり、大地の豊饒は文明の毒気に枯れ果てる。「進歩」の果は先ずこのような姿である。』(同書・千谷七郎訳)
 演出家宮城聡が召還しようとしたガイアとは、大地に豊饒をもたらす女神のことであり、クラーゲスが「文明」に殺されたとするものと重なるであろう。(2005年7/26記)


山形治江翻訳、蜷川幸雄演出、大竹しのぶ主演(メディア)、Bunkamuraシアターコクーン、2005(平成17)年5/27。
◆5/27(金)は、蜷川幸雄演出のエウリピデス原作・山形治江翻訳『メディア』を観劇した。メディアを大竹しのぶ、イアソンを生瀬勝久クレオンを吉田鋼太郎、乳母を松下砂稚子、守役を菅野菜保之、報告者を横田栄司が演じ、エウリピデス劇にふさわしく、赤い衣をまとい乳飲み子を抱いた女性ばかりのコロスが感情のうねりを盛り上げた。舞台は、イオルコスの城門前で、一面沼で蓮の花々が人間の絶望と悲哀を嘲笑するように、妖しく美しく咲いている。最近蜷川演出はシンプルで、仕掛けも抑制されてきたときいていたが、これぞ本来のニナガワ劇の舞台。脚役の二人の人間が動かす白馬や、最後にメディアが殺戮した子らの亡骸とともに乗って登場する天駆ける竜車など、歌舞伎の仕掛けそのもので、かつての『マクベス』に観られた美しい猥雑さは衰えていなかった。
 運良く(?)XB列(XA列は今回はない)という最前列の席だったので、湛えられた水の飛沫がしばしば飛び散ってきた。劇場で用意してくれたビニールの水よけで身を覆っての観劇、少し汗が出てくるほどだった。やはり水が飛び散った、蜷川幸雄演出の唐十郎作『下谷万年町物語』を思い起こした。
 メディアを演じた大竹しのぶさんは、女性のもっている愛らしさ、残酷さ、駆け引きの巧さ、激しさ、母性的なるものその他いっさいのものを含めたすべてを、瞬時の変身を重ねながら見事に演じ切った。素晴らしい!としか称える言葉がない。まさに大竹しのぶは、「世界レベルの女優」(蜷川幸雄氏)といわなければならないだろう。生瀬勝久のイアソンとの間の応酬は、感情表現に流されず、対話性をはらんだ緊張感があり、歌舞伎とは明らかに違う芝居となっていた。蜷川氏は「水にはいろいろな意味を託していますが、説明するとおもしろくないので、省略」(パンフレット)としているが、時折飛沫をあげる水は、西洋哲学史上最初の哲学者タレスの「水が万物の始源(アルケー)」の言葉を思い起こさせ、すべてを浄化する水というイメージもあれば、水面下にそれぞれの情念を隠しているという意味あいもあるだろう。

 最後のコロスの長の台詞が、こころに深く残った観劇だった。
「もろもろのことを司るのは、/オリュンポスの峰にましますゼウスの神、/そして何事にも神々は、我々には思いもよらぬ結末をおつけになるもの。/成ると思われたことが成らず/まさかと思うようなことを成らしめるのが神の遣り口、/この度のこともまた、そのとおりの結末とはなった。」(丹下和彦訳『岩波ギリシア悲劇全集3』)
 今回の脚本の翻訳者である山形治江日本大学教授の「台詞の裏側・神話の世界」(パンフレット)は、ギリシア悲劇の専門家の実に面白い解説である。夫イアソンをしてイオルコスの王位につけさせることになった、コルキスの呪力をもった「黄金羊毛」の入手も、魔女を叔母にもつ血筋のメディアの使った薬草のおかげであり、裏切った夫が婚約したコリントスの王女とその父を殺害したのも彼女の薬草の仕掛け、そしてあらかじめ逃亡先として頼んだアテナイの王アイゲウスも、子宝を授けてくれるとした彼女の薬草術あればこそであった。山形さんは、パンフレットで次のように書いている。
『やはり手に職があると、人生、なにかと強いのである。』(2005年5/29記)