唐木順三のことなど

 (「東京新聞」2013年10/23夕刊)
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 筒井清忠氏の名前は、昔村上一郎さんの個人誌『無名鬼』掲載の論考「ローレンツ・フォン・シュタインの社会学思想」ではじめて知った。『無名鬼』は定期購読を原則としていて、こちらは創刊号から廃刊まで購読していたが、全号まとめていま見つからない。この論考では、たしかシュタインに師事した有賀長雄を、日本社会学の祖として記述していたかと記憶している。ここではどうでもいいことだが、社会学という学問(科学)をどう定義するかによって、源流をどこに認めるかは異なってこよう。
 その筒井清忠氏が、「東京新聞」10/23夕刊紙上で唐木順三の『無常』について述べているので驚いた。わが読書遍歴としては、両者の志操は交叉していない。ずいぶん時間が経過したものだと、感懐に耽ったものである。それはそれとして、そのころ愛読していた栗田勇氏の影響もあって、唐木順三の著作からは大いに学んでいるつもりである。講演も一度聴講したことがある。その折の「文化とは繊細さなのです」という言葉が忘れられない。
(わが書庫の唐木順三の著書)

 筒井清忠氏が言及している、『無常』(筑摩叢書)のなかの第二「無常」の「(五)詠嘆的無常観から自覺的無常観へ」と「(六)飛花落葉」のところで、傍線を引いてある文章を抜き書きしておこうか。
……分別の常識、利害の計算、外界の修飾、情趣、意匠、さういふおもんぱかりのない状態において、物が物としてせまってくるといふ體驗なくして眞の詩人はありえない。……(同書p.250)
……兼好は時間の無常性を眞に見た人といってよい。原因結果といふ因果にもよらず、目的へむかっての連續的進行にもとらはれず、瞬間を忘却するための醉やフィクションや、すさびごと、すきごとにも逃げず、時間を時間の裸形において、瞬間を瞬間として、見、體驗した。……(同書p.252)
……芭蕉における中世精神は、ひとつの観念であり、その観念を實地に移す條件として「旅」が選ばれた。……(同書p.270)
……芭蕉の手製の澁笠にも、紙衣にも、一鉢一杖にも、しぐれ、霰(あられ)にも、どこか風狂の姿、精神がある。泰平の世の侘び姿がある。それが同時に芭蕉の命をかけた風流、風雅でもあったのだが、一種の浪漫は失はれてはゐない。……(同書p.271)
……芭蕉はおのが風雅を夏爐冬扇といった。既に世にはびこってきた町人根性、世俗肯定の洒落文學、また徳川政権への御用文學に對して、世を侘び、侘びることをも更に侘びて、自己を無用の風羅坊と設定することによって、はじめてそこに風雅の世界、詩の世界をもつことができた。宗祇の現實性、實感性に對する芭蕉の浪漫性、俳諧性はそこに由来してゐる。……(同書p.272)
……「飛花落葉の散亂るるも、その中にして見とめ聞とめざれば、をさまることなし。」問題は「その中にして」の一語にある。飛花落葉を外から寫すのではない。自然、人生の無常變易を、客観對象として、主観、主體がそれを寫生、寫實するのではない。……(同書pp.272~273)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の小菊。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆