できるだけ正しい日本語で


小郷知子アナ。都立高出身なので応援している。)
 数日前のNHKニュースで、小郷知子アナは、「排斥」をうっかりだろう「はいそ」と読み間違え、すぐに訂正した。この春に青山祐子アナが「殺陣」を「たて」と読まずに、「さつじん」と読んだことを誤りとする指摘があったが、これは「さつじん」とも読むことは、国語辞典に明らかだ(ただし「殺陣師」は「たてし」である)。もっとも「殺人」と誤解させるので、放送ではふさわしくはないだろうが。

現在のNHKの代表女子アナは、やはりこの人、有働 由美子アナ。発散するsomethingが違う。)
 
 水村美苗氏へのインタビューを中心に据えた、『ユリイカ』の特集号についてまとめたことがある。そのHP記事の再録をして、改めて日本語の問題を考えてみたい。

◆『ユリイカ』(青土社)2009年2月号の「特集・日本語は亡びるのか?」は、知的眩暈をもたらし、未だ今回の議論の提唱者水村美苗氏のインタビュー「世界史における日本語の使命」について、確たる見解がもてないでいる。共感を感じるところが多いが、いっぽうでは、これに反発する批評家の言にも、なるほどと首肯してしまう。ともあれみずからにあった日本語の表現を磨いていくほかはない。
 水村氏の『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(筑摩書房)を読んでいないので議論の詳細について論評できる立場ではないが、『ユリイカ』誌のインタビューのほか、「東京新聞」08年12/6号紙上での5段組みの紹介記事などで論旨はだいたい理解できた。
 明治時代に、西洋思想の翻訳を通して世界性・普遍性を持つものとしての日本語=国語をつくり出した。日本近代文学はその営為の偉大な成果であった。しかるに現代は、英語がインターネットの後押しも受けて「普遍語」としての覇権を強固なものとしつつある。話し言葉=書き言葉である日本語は、もはや一つの「現地語」でしかなく、世界性=普遍性を持った主張・表現をするには英語を使用するほかはない。
 これを打開するべく、教育において、日本近代文学を読ませて書き言葉としての日本語の修練を重視し、英語は、一部のバイリンガル養成のためにエリートに限定して教えるべし、と提案している。面白いが、大学受験が教育課程を実質支配する現状がある限り実現不可能な〈妄想〉といえよう。しかし広い視野をもつ水村氏は、かなり切迫感を抱いて提唱している。
『教育を通じて、〈書き言葉〉としての日本語を護ることと優れた〈二重言語者〉を育てること。この二つは、どちらも急務であり、しかも表裏一体の関係にあると思っているのです。ところが、悲しいことに、日本という国はどちらも真剣にとっていない。先日、イエール大学で教えている私の昔の学友に話を聞いたところ、二〇〇七年度のイエール大学の学部の入学の際、日本人はなんと二一人しか応募してこなかった。それに対して、韓国人は二〇〇〇人以上が応募してきているというんです。もちろん、中国人はそれよりも多い。』(『ユリイカ』2月号45p)
『読む能力というのは、運動能力と同じで、若いころに培わなくてはならない。若い人にどういう本をどれぐらい読ませるかによって、その国の文化のありかたが違ってきます。私の行ったアメリカのハイスクールでは、国語の授業では、学校が大量に所有する本の中から自分が教えたい本を先生が選び、次々と学生に読ませていました。ともかくたくさんの量を読むのが必要だという判断があって教科書というものを使わなかったのだと思います。』(同53p)
「普遍語の絶対性を水村氏はあまりにも信じすぎ」ているとの野崎歓氏の、いまやインターネット空間を席巻しつつある、流動する「おしゃべり」(水村氏の「話し言葉」は論理的で目的的性格をもつ故まだ「書き言葉」に近いとする)と、固着し個物化してゆく「書き言葉」の二つを、「綴じられること=書物化」をめぐる一つの運動の二つの様相ととらえてゆくことはできないか、との長谷川一氏の、現在のインターネット空間が生み出しつつあるコンテクストは、かつての近代文学=〈国語〉が培養した感性を相対化し、地理的条件を超えて多様な感性をつくり出しているのであり、〈国語〉と〈現地語〉とのヒエラルキーを解体し、何が〈読まれるべき言葉〉であるのかをもう一度問い直す営為が求められるとの、坂上秋成氏の、それぞれの批評に考えさせられた。(2009年3/12記) 
(地元「千葉テレビ」の笠井さやかアナを応援している。)