ドストエフスキーの小説

 昨年3月に本邦初訳(桑野隆訳)の初版が上梓された、ミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの創作の問題』(平凡社ライブラリー)を読む。「ドストエフスキーとは、ポリフォニー小説の創造者なのである」との立場で、作品に即して自説の説明を試みている。犯罪を題材に選べば何か現代という時代を捉え得るかのような錯覚とは無縁で、あくまでも文学の表現形式に注目して議論が展開している。
 バフチンは「もしもドストエフスキーの多様な特質からなる素材が、作者の単一のモノローグ的な意識と相関した単一世界の中で展開されているならば、相容れないものをひとつにまとめあわせるという課題は解決されないであろうし、ドストエフスキーは文体を欠いたへぼ芸術家ということになったろう」とし、ドストエフスキー小説の統一性の特質について論じている。
……だが実際には、ドストエフスキーの素材のきわめて相容れがたい諸要素は、いくつかの世界、いくつかの十全な権利をもった意識に分かれて存在しており、ひとつの視野のなかではなく、対等な価値をもったいくつかの十全な視野のなかに存在している。そして、素材が直接組み合わさるのではなく、それぞれの視野をもったこれらの世界、これらの意識が組み合わさって高次の統一性を、いわば第二次的なレベルの統一性、ポリフォニー小説という統一性を成している。小唄の世界はシラーの賛歌の世界と組み合わさり、スメルジャコフの視野はドミートリイやイワンの視野と組み合わさっている。このようにさまざまな世界からなっているがゆえに、素材は、全体がもつ統一性を乱したり機械的なものにしないままに、その独自性と特殊性を極限まで展開することができるのである。……(同書p.37)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20110629/1309360622(『ドストエフスキーの「推しメン」少女』)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20101019/1287481056(「小説作品中の植物名」)
 かつて歳旦の挨拶代わりに書いたエッセイ「翻訳について」は、ドストエフスキー作品の翻訳を中心に触れているので、ここに記載したい。
……年末から、炬燵でドストエフスキーの未読の小説(『二重人格』小沼文彦訳)を読んでいる。この偉大な作家の作品を読んでいると、わが文学体験の原点に戻って きたとの実感が湧く。あるいは多くの文学好きのひとがもつ想いなのかもしれない。
 このところドストエフスキー作品の新訳が出版されて、新しい読者を獲得しつつあるとのことである。遅れをとらぬようこれらもぼちぼち読んで行きたい。
 新訳がすべてすぐれているということでもないだろうが、化粧を変えた美女の変身ぶりを待つ期待感がたしかにある。ただし、ビートニク聖典ジャック・ケルアックの『路上』が某出版社の『世界文学全集』の一巻として刊行されけっこう購読されているらしいが、これなどは、福田実訳・森山裕之装幀の河出書房新社の本に愛着があり、新訳に飛びつく気にはならない。
 古田敦彦訳の『ギリシア悲劇を読むーソポクレス「ピロテクス」にみる教育劇』(青土社)は、岩波版『悲劇全集』の『ピロクテーテース」に比べ、やわらかさと味わいのあるピロクテスの言葉が感動的であった。十代の読者を想定して独文学者池内紀が翻訳した、カントの『永遠平和のために』(集英社)は、古い文体は捨て、学問的措辞および用語にこだわらず、検閲官用構文を無視し「原文の伝えようとしているところを、なるたけ簡明な日本語で再現した」試みは読みやすく、その議論もなるほどと思わせる日本語となって、カントにより親しみを感じて読めた。
 周知のように登場人物の名前にさえ隠された意味をもたせた、ドストエフスキーの作品の翻訳は一筋縄ではいかないのだろう。翻訳をめぐってのいくつかの論考を眼にする機会を得た。
 清水正によれば(『ドストエフスキー論全集』D文学研究会)、明治二十五年にすでに内田魯庵によって『罪と罰』の翻訳が試みられているが、これは、「thinking(考えること)」を目的格とした構文を含む英語訳からのものであった。かの透谷は「考へる事を為て居た」という訳文に注目したそうで、さすがである。
 志賀直哉は、英訳『罪と罰』を求めて「丸善」で、『シンアンドパニシュメント』はないかと訊くと、『クライムアンドパニシュメント』だと店員に訂正されたそうである。原題も当然のごとくロシア語「罪と罰」と思い込みがちであるが、単純ではないのだ。ロシア文学江川卓は「謎とき『罪と罰』」(新潮社)で、この題名はベッカリーアの『犯罪と刑罰』をもじったものではないかとの仮説を立てている。ロシア語の原義は、規範を踏み越えたこととその罰ということらしい。内村剛介は、「法の侵犯」を「犯行」と措き、それに「踏み越え」の文字をあてるのが語源から出てくる解であるとし、『踏み越えと処罰』が原題であり、その「踏み越え=犯」は「罪」にあらずとのたたき割り(ラスコローチ)のラスコーリニコフの「思いつき」は、究極的には至高のものからの罰を受けるほかはないと説明していて(『人類の知的遺産・ドストエフスキー講談社)、感動的である。江川卓は前掲書で、愛を渇望しながらも愛が不可能であることの具体的感触こそが、主人公の受けた責め苦=罰であるとしている。
 翻訳を通して外国の文学を真に捉えることが、いかにむずかしいかを思い知らされた。その逆のことも考えてみる。広く諸外国で読まれていることをもってある売れっ子作家を称揚する文章に触れることがあったが、「主語の概念は不要で」「述語だけで基本文として独立している」(金谷武洋『日本語に主語はいらない』講談社)日本語の小説がそんなにかんたんに読まれてしまうとすれば、ホンモノかどうか疑ってみた方がよろしいのではあるまいか。……(2009年元旦)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のカラー(オランダ海芋=カイウ)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆