三浦雅士氏の近著『孤独の発明 または言語の政治学』(講談社)は第一章で、水村美苗『日本語が亡びるときー英語の世紀の中で』(筑摩書房)と、小西甚一『日本文藝史』(講談社)を言語と文藝をめぐる考察の拠点となりうる名著としてとりあげている。前者の議論については一部読んでいて知っていたが、後者についてはあまりの大著で敬遠していた。三浦雅士氏は、『日本文藝史』が「著者畢生の事業であり、大いに敬意を払われるべき仕事である」にもかかわらず、「国文学の世界においても文芸批評の世界においても―文芸批評としても群を抜いている―論じられることが必ずしも多くはない。不思議というほかはない」としている。
小西の方法は、自身が述べるようにフリッツ・シュトリヒの『ドイツ古典主義とロマン主義』に負う以上に、おそらく吉川幸次郎の方法に負っている。小西はシュトリヒに倣って、規範を重視する古典主義を「雅」に配し、逸脱を重視するロマン主義を「俗」に配したと述べているが、小西の雅俗概念の根幹はむしろ芭蕉の不易流行に等しい。雅が不易、俗が流行、芭蕉の雅俗混淆すなわち不易流行である。
だが、雅、俗、雅俗によって文学の流れを捉えようとする方法以上に目立つのは、日本文学を宋とその先駆ともいうべき六朝の文学の影響下に捉えようとする視点であり、その視点は基本的に吉川幸次郎の中国文学観に等しい。それは従って、日本文学との関係であろうがなかろうが、中国文学そのものが宋代を軸に考えられなければならないことを示唆している。(p.35 )
小西甚一先生といえば、高校生のころは、古文の受験参考書で古文の読解法を学び、大学生の時代には、その研究室から廊下にまで謡の声が聞こえてきたことを思い起こす。『古文の読解』(ちくま学芸文庫)と、三浦氏が三島由紀夫の戯曲に関して「読みが鋭く深い」と評している、『日本文藝史(5 )』(講談社)を購入したい。
http://allreviews.jp/review/896(「鹿島茂書評:『古文の読解』」)