中世史家の呉座勇一氏ついに〈一揆〉を
いまを時めく呉座勇一国際日本文化研究センター客員准教授が、ついに一揆を起こしたようである。とりあえず慶賀しておきたい。
『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)によれば、 そもそも「一揆」という言葉の語源は、「はかる」すなわち計量・計測の意味で、派生して「教え・方法・行為」の意味を含むようになり、日本の平安時代では、単に「同一である」との意味で用いられた。鎌倉時代に入り、「心を一つにして」「一致団結して」の意味で、動詞的用法で用いられるようになったのである。そして、
……一揆の本質は、呪術的な〈神への誓約〉ではなく現実的な〈人と人との契約〉であるというところに存在する。だとすれば、一揆の結合原理を、一揆契約と兄弟契約の類似性という事実を出発点にして、考察する必要があるだろう。……(p.216)
一揆の結成とは、旧来の「縁」をいったん切断した上で新たな「縁」を生み出す行為と把握すべきとすれば、「新しい中世」とも評される現代において、伝統的な共同性の復活ではなく、例えばSNSなどの現代メディアの利用によってどういう「縁」を生み出すのかという課題を考える上で、一揆からヒントが得られるのではないかというのが、終章の問題提起である。
とすれば呉座勇一氏のこの度の〈一揆〉は、いわゆる結婚の一形態なのではあるまいか。
第九の季節:国家権力と藝術
1942年4/20ヒトラー生誕祝賀祭( celebration of Hitler's Birthday)での、フルトヴェングラー指揮、ベルリン・フィル演奏のベートーヴェン「交響曲第九番」。この演奏をめぐる経過について、次のブログ記事は参考になる。
フルトヴェングラーとナチとの葛藤を題材にした、ロナルド・ハーウッド作、行定(ゆきさだ)勲演出の舞台『テイキングサイド』の観劇記(2013年2/9記)をそのまま再公開しておきたい。
▼昨日2/8(金)午後は、東京天王洲アイル駅下車、シーフォードスクエア2Fの銀河劇場にて、ロナルド・ハーウィッド作、行定勲演出の『テイキングサイド(TAKING SIDES)』を観劇した。天王洲アイル駅は、東京モノレールとりんかい線の乗降駅である。下車するのは、初めてであった。ぼんやり歩いていると、頭上をモノレールが威圧するように走ってきて驚かされる。ヒトラーがこんな現代都市を見たらどういう感想をもつであろうか。
この演劇は、大戦が終わったドイツの町で、ナチスへの協力を追及する「非ナチ化審査」の審問にかけられる偉大なマエストロ、フルトヴェングラー(平幹二朗)と、芸術家なんぞも一人の生活者として観察すれば「ただのクソ野郎」だと確信する、面接官であるスティーヴ・アーノルド米軍少佐(筧利夫)との、権力と藝術をめぐる対決のドラマである。2幕構成で、場所は同じ少佐審問の部屋。狂言回し役として、ベルリン・フィルの第二ヴァイオリニスト、ヘルムート・ローデ(小林隆)が登場、元ナチ党員だったことをアーノルド少佐に暴露され、その罪を不問にするという取引に応じて、フルトヴェングラーの私生活と、カラヤンへの嫉妬について調べることを示唆する。平凡で弱さをもつこの男の存在があって、マエストロと少佐との息詰まる攻防がいっそう奥行きをもつ。
56歳のフルトヴェングラーは、34歳のカラヤンに激しい嫉妬心をもっていて、それを見抜いたゲッペルスから「カラヤンにやらせようか」と言われて、慌ててヒトラー誕生祝いの演奏を引き受けたのだと、少佐が突く。またフルトヴェングラーの乱れた女性関係を指摘し、ほかの音楽家たちのように国外脱出しなかったのは、ナチ政権下での生活に満足しきっていたからだとなじる。アーノルド少佐は、ユダヤ人収容所の悲惨さをみずからの目で目撃していたのだ。フルトヴェングラーを尊敬する書記のエンミ・シュトラウベ(福田沙紀)の父のように、殺される結果になろうともナチスに抵抗すべきではなかったかと、アーノルド少佐はフルトヴェングラーを糾弾する。(部屋の蓄音機からブルックナーの曲が聞こえ)ヒトラー自殺の報とともに、ラジオでフルトヴェングラー指揮のブルックナー作曲『交響曲第7番』の「第2楽章・アダージョ」が流されたのは、総統への葬送の曲としてであって、フルトヴェングラーの音楽がナチスにおいてどういう位置づけをもっていたかを証しているのだと、少佐は追及を緩めない。すぐにレコードは止められるが、聴きたくなってしまった。※福田沙紀は、『メイド刑事』以来注目、『平清盛』をステップに成長している。
フルトヴェングラーは、ただこのドイツの地に留まって、藝術を守りたかったのだと述べる。実在したドイツの名優とされるグスタフ・グリュントゲンスをモデルにした、原作:クラウス・マン、監督:イシュトヴァーン・サボーの映画『メフィスト』も、ナチ政権下での藝術家の権力との葛藤を追求している。1982(昭和57)年4月に新宿のシネマスクエアとうきゅうで観ている。そのパンフレット解説には、
……映画「メフィスト」は主人公ヘフゲンの芸術家によるナチ体制下での妥協と、どのような体制下であっても、自国で芸術を志向しようという、アンビバレントな生き方を、ひよわで、虚栄心に満ちた人間として、演技者クラウス・マリア・ブランダウアーを得て、普遍的な人間の二面性というテーマを現代に甦らせた。……(p.35)
フルトヴェングラーは、多くのユダヤ人演奏家の国外脱出に尽力していた。そのことを、ピアニストの夫をいっとき助けてもらった女性タマーラ・ザックス(小島聖)が証言する。アーノルド少佐の部下、デイビット・ウイルズ(鈴木亮平)は、フルトヴェングラーの音楽の偉大さを語り、このマエストロへのとうぜんの敬意を少佐に要求する。この二人はいわば、弁護人と弁護側証人であろう。観客にどちらの側を選ぶのか迫っている舞台であるといえるだろう。むろんフルトヴェングラーの立場を支持したい。
なおフルトヴェングラーがその才能を嫉妬したとされるヘルベルト・フォン・カラヤン指揮の、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のブルックナー作曲『交響曲第7番』の演奏を、1973(昭和48)年10/26NHKホール落成記念演奏会で聴いたことがある。しかしカラヤン指揮・ベルリンフィル演奏で印象に残っているのは、1979(昭和54)年10/22、普門館ホールでの、ハイドン作曲・オラトリオ『天地創造』である。要するに音楽については鑑賞能力が欠落しているので、一期一会の感動で終わってしまうのである。
イヴ・モンタンあるいは「独裁」について
本日11/9は、フランスのシャンソン歌手イヴ・モンタンの命日(1991年11/9没)にあたる。シャンソンの「枯葉」の哀感もすてきであるが、コスタ・ガブラス(COSTA GAVRAS)監督、イヴ・モンタン主演の映画『Z』(1970年有楽町みゆき座公開)も忘れがたい。
1963年ギリシャの軍事独裁化しつつあった政権下で起きた、民主左翼同盟議員ランブラキズが暗殺され、その真相が闇に葬られた「ランブラキズ事件」を題材に、架空の国で起きる暗殺をめぐる軍事独裁政権の陰謀を描いていて、必ずしも後味はよくない映画であった。
✻「つまり…」の後は、《彼は生きている》のことばが入っている。闘う者の精神・思想は生き続けている、の意味。
今の日本は、民主的選挙が継続しており、民意で政権交代が可能な状態。独裁ではない。一方、共産主義は一党独裁を前提にしているから、独裁体制でない共産主義はありえない。そんな基本的なことも理解していないのか、或いは分かった上でウソをついているのか。後者だとすると、ウソが下手すぎる。 https://t.co/afJRoWsrl6
— Hideki Kakeya (@hkakeya) November 8, 2019
この朝日新聞記者の「独裁」観は、相当雑である。福島原発事故で生じている処理水(トリチウム水)の海洋放出すらを決断できない現政権が、どうして「独裁」でありえようか。
今の100倍トリチウムが存在していた頃に青春時代を送っておられたようですが、
— 菊池奈穂@ナホkitchen (@nahokitchen) September 29, 2019
それなりに健康で長生きされていることがご自身によって証明されていますが。 https://t.co/DqVxa2YXf6
朝日新聞「原発処理水の海洋放出、科学的に問題ないならそれでいいのか?」 https://t.co/j3DuPA7ufF @sharenewsjapan1より
— 黒瀬 深 (@Shin_kurose) September 28, 2019
はい問題ないです。科学的に正しい事を解説して風評被害を正すのがメディアの役割なのに、朝日新聞はその逆であると。まずまともに検証できる人材がもう居ないんでしょうね。
銀座ブロッサムで「柳家小三治独演会」を聴く
昨日11/4(月)は、東京・銀座ブロッサム(中央会館)で、祝日ということで、めずらしく昼席の「柳家小三治独演会」を聴いた。じつに2年ぶりのS氏主宰落語研究会の定例鑑賞会への参加であった。今回の参加者は9名。K氏は、何と狭心症の手術で入院、2日前に退院したばかりでの参加であった。「浅草の旦那」と呼ばれるK氏、前日は周囲が止めるのも聞かず、長唄の発表会に出ていたとのこと、呆れてしまった。いつも着物で街を歩いているが、最近はアジア系の観光客とよく間違われるので、着物はやめているそうである。現役のときはメガバンクの支店長であったが、それは今やどうでもよい。
さて番組は、
前座:柳家三之助 二人癖(のめる)
(仲入り)
柳家小三治:小言念仏
Sさんが、こちらの左耳難聴を知って、前列の席を確保してくれたので、夏の「柳家小三治一門会」の高座「粗忽の長屋」の時より聴きとり易かった。ただ小さい声で話すこともあり完全に全部聞こえたわけでもない。とくにまくらの噺は細部で伝わらない。
小三治師匠の「死神」。やや暗いトーンとシュールな雰囲気を保って展開。呪文の後手を2回叩くという、死神の教えた〈治療〉もしつこく繰り返さず、2回目からは呪文だけにしたのはシンプルでよい。オチに小三治独特の、くしゃみがあるらしいが、立川志らくは、主人公があらかじめ風邪を引いていて、最後にくしゃみで自分の寿命の蝋燭の火を消してしまうというオチのつくりは、あざとく「落ちの為の風邪である。卑怯な演出だ」(『全身落語家読本』新潮選書)と批評している。今回、主人公は風邪を伏線とせず、ただくしゃみをして火を消してしまうオチだった。これでいいのではないか。
いつものこととはいえ、まくらが異常に長すぎて、「死神」一席ですでに終演時間に10分ほど迫り、舞台袖から女性マネージャーの「もう一席演ります」との声に、「ええっ、終わりじゃないの?」と師匠。けっきょく仲入りを設けて「小言念仏」の一席。音楽の演奏会でのアンコール演奏のような展開であった。あるいはこれもあらかじめ企図したことなのかもしれない。
終了後、歌舞伎座そばの中華料理店で検討会名目の呑み会。丸テーブルを囲んで楽しかった。わが左に坐った、IN氏も昨年11月に伴侶を亡くしていて、互いに一周忌法要やらお墓の話などで奇妙に盛り上がった。この人も別なメガバンクの支店長だった。いかにも堅い金融マンという印象は変わらない。からかうダジャレをはす向かいに坐るK氏に投げつけたところ、主宰者S氏から「うまい!」の掛け声あり。この時が昨夕いちばんの喜びであった。