成河(ソンハ)の(舞台上の)お相手は、深津絵理&多部未華子

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〈いまを時めく〉成河(ソンハ)出演の舞台は3回ほど観ている。2010年9/15(水)ル・テアトル銀座で、ギリシアホメロス叙事詩を舞台化した、栗山民也演出の『イリアス』。ソンハ(当時はチョウソンハ)の役は、アキレウス内野聖陽)の僚友で、アキレウスの部隊の戦士パトロクロス
 この男優の印象が強かったのは、二人の主演女優の相手役を演じた舞台。

simmel20.hatenablog.com 2013年8/9(金)世田谷パブリックシアターにて、サイモン・マクバーニー演出『春琴』の舞台。谷崎潤一郎の『春琴抄』の原作に忠実に、エッセイ『陰翳礼讃』の日本文化論も塗(まぶ)して、入れ子構造で構成されていた。春琴が深津絵里、佐助が成河(ソンハ)である。
▼この「老人(笈田ヨシ)の繰り言」が晩年の佐助の回想場面で繰り返される。このリフレインによって、春琴と佐助の関係は構造的に不変のものであったことが暗示されている。幼少のころは人形、成長して仮面の女性、そして襲われる時には生身の女性(深津絵里)が春琴を演じる。終始声は黒子役の一人深津絵里が担当、瞬時の変化にも違和感がない。春琴は小柄ではあっても、「體は着痩せのするほうで裸體の時は肉づきが思ひのほか豊かに色が抜ける程白く幾つになっても肌に若々しいつやがあった」と描写されている。仮面の女性の半裸の胸は白くまぶしく、大きく豊かで息を呑んだ。このときばかりは、今回公演、C列が最前列の配置でH列2の席を興奮とともに悦んだ。そのあとの深津絵里も肌着の下に胸が隆起していた。嗜虐的ばかりではない、春琴の母性をも暗示していよう。佐助が盲目となって二人が共通の暗黒を共有し抱き合う場面こそ、繰り返しとリフレインの極点で成立したクライマックスである。感動的であった。
 出演者たちが背後スクリーンの光芒に向き合う。『陰翳礼賛』の日本文化が現代文明とどう対峙しようとするのか、演出家は問いかけ、〈コンプリシテ(共犯者)〉となってしまった観客は、オリエンタリズムには乗らないぞと思いつつも〈身体的〉共感を感じるのであった。▼(2013年8/12記)

simmel20.hatenablog.com 2012年6/11(月)、東京新国立劇場・中劇場で、平野啓一郎翻訳、宮本亜門演出の『サロメ』を観劇。今回の特色は、平野新訳が、これまでの「大人の魔性の女」としてのサロメ像から「少女であるサロメに、残酷さと恐ろしさを併せもつ二重性を帯びさせた」、サロメの捉え方にあるとのこと。少女サロメ多部未華子アンドロギュヌス的存在のヨカナーンが成河(ソンハ)。
▼月が重要なはたらきをしている舞台のはずであるが、ここでは、あえて月の書割りはなかった。登場人物たちの台詞=ことばから、想像させようとの演出意図とのこと。アイーダ・ゴメスの舞踊劇『サロメ』では、スクリーンの月の変化が印象的であった。
……サロメの劇において、月は中心の存在であった。月は神秘のベールで地上を被い、人々に仮面を付け、その光で人々の脳裡を洗う。月は鏡のように人々の心を映し出し、支配者のように人々の言葉に耳を傾け、傀儡師のように人々の行為を操り、預言者のように人の心の変化を色に現す。そして、月はサロメを女神にし、成熟した女にし、愛の完成を祝福する。……(井村君江『「サロメ」の変容』新書館p.60)
 淡い月の光の下でこそ、囚われの身で汚れていたはずのヨカナーンの身も、「雅歌」の「水のほとりの鳩」「ゆりの花」「象牙の板」「レバノン杉」の喩えをもって讃えられ、サロメの欲望の視線の対象となったのであろう。ここのところが舞台からは伝わらなかった。
 また脱がない多部=サロメの踊りに、奥田瑛二=ヘロデ・アンティパスが、どうして感極まることができたのかも説得力がなかった。AKB48の総選挙で感激・興奮するオヤジといったところだった。▼(2012年6/13記)