わたしの恋しい人は
赤銅色に輝き、ひときわ目立つ。
頭は金、純金で
髪はふさふさと、烏の羽のように黒い。
目は水のほとりの鳩
乳で身を洗い、形よく座っている。
頬は香り草の花床、かぐわしく茂っている。
唇はゆりの花、ミルラのしずくを滴らせる。
手はタルシシュの珠玉をはめた金の円筒
胸はサファイアをちりばめた象牙の板
脚は純金の台に据えられた大理石の柱。
姿はレバノンの山、レバノン杉のような若者。
その口は甘美、なにもかもわたしを魅惑する。
エルサレムのおとめたちよ
これがわたしの恋する人、これがわたしの慕う人。(旧約「雅歌5・おとめの歌」『新共同訳聖書』)
6/11(月)は、東京新国立劇場・中劇場で、平野啓一郎翻訳、宮本亜門演出の『サロメ』を観劇。今回の特色は、平野新訳が、これまでの「大人の魔性の女」としてのサロメ像から「少女であるサロメに、残酷さと恐ろしさを併せもつ二重性を帯びさせた」、サロメの捉え方にあるとのことである。サロメをAKB48にしたのだろうか。黒木メイサあたりではなく、多部未華子が演じてこそ相応しいというわけである。
http://simmel20.hatenablog.com/entry/20110807/1312689438(黒木メイサと多部未華子)
http://simmel20.hatenablog.com/entry/20110227/1298819466(湯原かの子『「サロメ」世紀末の夢想』)
パンフレットの「対談」を読んで、寓目することとなった上記論考に、「処女性と残忍性、純潔と妖艶さを合わせ持つ美少女というサロメ像」を、新約「福音書」の話からオスカー・ワイルドが創作したとある。これは周知のこと。この舞台では、サロメの少女性と純粋性を強調し、それ故の残酷さを鮮明にしようとしたのだろうか。多部未華子は、その限りでみごとに演じていた。
登場人物の衣装及び舞台装置・小道具が現代風になっているのは、スティーブン・バーコフ、コンヴィチュニー演出ですでに慣れていて、とくに違和感も驚きもない。湯原論考が鋭く指摘する「月=鏡=古井戸=銀の盆」のイメージの連鎖が成立しているとすれば、ヨカナーン(ヨハネ)が収監されている牢獄のある水溜りが舞台前景に設えられてあるのは面白かった。なるほどサロメが執拗にこの水溜りを覗くのは、アンドロギュヌス=ヨカナーンへの狂おしいまでの思慕とともに、相似のアンドロギュヌスとしてのおのれの姿を鏡として映すためであるのか、この舞台設定は効果的にそれを暗示してくれた。
月が重要なはたらきをしている舞台のはずであるが、ここでは、あえて月の書割りはなかった。登場人物たちの台詞=ことばから、想像させようとの演出意図とのこと。アイーダ・ゴメスの舞踊劇『サロメ』では、スクリーンの月の変化が印象的であった。
……サロメの劇において、月は中心の存在であった。月は神秘のベールで地上を被い、人々に仮面を付け、その光で人々の脳裡を洗う。月は鏡のように人々の心を映し出し、支配者のように人々の言葉に耳を傾け、傀儡師のように人々の行為を操り、預言者のように人の心の変化を色に現す。そして、月はサロメを女神にし、成熟した女にし、愛の完成を祝福する。……(井村君江『「サロメ」の変容』新書館p.60)
淡い月の光の下でこそ、囚われの身で汚れていたはずのヨカナーンの身も、「雅歌」の「水のほとりの鳩」「ゆりの花」「象牙の板」「レバノン杉」の喩えをもって讃えられ、サロメの欲望の視線の対象となったのであろう。ここのところが舞台からは伝わらなかった。
また脱がない多部=サロメの踊りに、奥田瑛二=ヘロデ・アンティパスが、どうして感極まることができたのかも説得力がなかった。AKB48の総選挙で感激・興奮するオヤジといったところだった。
http://simmel20.hatenablog.com/entry/20110419/1303203826(湯原かの子氏の旦那)
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