「技術バカロレア試験哲学科目の問題」にアダム・スミスの「同感」論登場

 

simmel20.hatenablog.com

▼社会思想史のうえで、「大地震」で思い起こされるのは、アダム・スミスの『道徳感情論』の「利己心」についての議論である。「同感の原理」によって、この「利己心」との折り合いを導き、あるべき市民社会としての市場社会を構想したといえるだろう。スミスがこの著作を著す直前(1755年)「リスボン地震」が起こり、リスボンほかの被災地は壊滅的な惨事に遭っていたのだ。知られた記述はその事実を踏まえている。 

 シナという大帝国が、その無数の住民のすべてとともに、とつぜん地震によってのみこまれたと想定し、そして、ヨーロッパにいる人間愛のある人で、世界のその部分にどんな種類のつながりももたなかったものが、この恐るべき災厄の報道をうけとったとき、どんな感受作用をうけるであろうかを、考察しよう。わたくしの想像では、かれはなによりもまず、あの不幸な国民の非運にたいするかれの悲哀をひじょうに強く表明するであろうし、人生の不安定、このようにして一瞬に壊滅させられうる人間のあらゆる労働のむなしさについて、多くの憂鬱な考察をするであろう。かれはまた、おそらく、もしかれが思索の人であったとすれば、この災難が、ヨーロッパの商業に、および世界全体の営業活動に、もたらすかもしれない諸効果についての、多くの推論に入っていくだろう。そして、この上品な哲学のすべてがおわったとき、これらの人道的諸感情のすべてが、ひとたびみごとに表現されてしまったとき、かれは、そういう偶発事件がなにもおこらなかったかのように、いつもとかわらぬ気楽さと平静さをもって、自分の仕事または快楽を追求するであろうし、休息をとったり気晴らしをしたりするであろう。かれ自身にふりかかりうるもっともつまらぬ災難でさえも、もっと真実の混乱をひき起こすであろう。(『道徳感情論』第3部第2篇、水田洋訳・筑摩書房)▼(2008年6/18記)

simmel20.hatenablog.com

▼人間の自然性には、サド侯爵が強調した利己主義のみならず、共感の心的能力と互酬的な関係性があり、それこそが人間が生物の進化に耐えられてきた原因である。アダム・スミスは、『国富論』の利己主義論と、『道徳感情論』の共感(同感)の理論で市民社会を理論化しようとしたが、互酬性に考えが及ばなかったため、強制性(規範性)をもった道徳理論の構築に成功しなかった。行為に対する当然の返答の行為がなされない場合、相手側に懲罰的な報復がなされる関係が互酬性だからである。
……それに対して、普遍化された道徳規範では、その規範は法的社会が指令するものとなる。ここに道徳性は、相手との直接的な接触と交流を失い、三人称的な立場にある国家に媒介されたものとなり、規則(法)として存在しはじめるようになる。以降、法は、互酬的関係性における権利と義務を、国家との関係における権利と義務へと書き換えていく。ここに道徳的判断は法社会化するのだが、近代的な倫理学がほぼつねに法的な観点をとるのは、それゆえなのである。……▼(2012年9/26記)

simmel20.hatenablog.com松原隆一郎氏「金融資本主義とニヒリズム」は、経済思想史的な考察を土台に、現代資本主義における消費行動とその目的との関連について鋭い指摘をしている。F.ナイトによれば、将来の事象についての推理には、1)先験的確率(数学的な場合分け)、2)統計的確率(経験データからの確率)、3)1回限りの現象に関する推定の三つがある。現代のグローバル化した金融資本主義においては、アダム・スミス風の「立場の交換」による「推論」は成り立たず、「不確実性」に操られる市場の動向を「推定」してなされる「投機」が決定的となる。この「推定」は多数がどう動くか判断する「推定」であり、そこで生まれた不確かな「確信」が「投機」行動を促す。そして、労働・土地・資本・(知識)も投機の対象となり、資産としての価値が問われる。もはや消費行動・生活も、それ自体の意味を喪い、「アメリカとともに日本経済が形成した金融資本主義においては、いまなお消費することは資産価値に依存してしまっている」。▼(2009年7/5記)

simmel20.hatenablog.com▼【アダム・スミス】新村聡(岡山大学特命教授)
◎主要著作の各段階で平等論をめぐって変遷・転換がある。
⃝『道徳感情論』の場合:1)土地所有の不平等→奢侈品(邸宅・装飾品など)消費の不平等→品者の勤労を刺激し労働生産力を高める→生活水準が一定で維持される人口数の増加、つまり功利主義的な不平等正当化論。2)(結果としての)生活必需品の消費量の平等を理由とした(原因としての)土地所有の不平等の正当化、という視点の移動。労働原則をまったく無視したわけではないが、労働原則(労働に応じた分配)における不平等よりも必要原則(必要に応じた分配)における平等をいっそう重視している。
⃝『法学講義』と『国富論草稿』の場合:1)未開社会の土地共有と文明社会における土地私有の不平等(大土地所有と小土地所有)を比較している、2)高い労働生産力の原因は、勤労よりも分業の成立にあるとしている、3)消費財が生活必需品・便益品・奢侈品の三つに分類され、労働生産力の上昇によって各人が消費する生活必需品のみならず便益品も増加することを強調している。ヒュームが労働者の労働分配率に注目したのに対し、スミスは労働生産力の上昇に注目している、という見解の違いがある。
⃝『国富論』の場合:1)労働者の人口構成では、資本によって雇用される勤勉な生産的労働者の割合が上昇し、労働者全体の平均的な社会的性格もより勤勉になっていく、2)利子率が下がって、不労所得で生活する利子生活者が減り、労働者と資本家のだれもが労働してその労働に比例する所得を手にする平等社会が実現する、3)相続法の廃止により均分相続が実現すれば、長期的には大地主が減って小地主が増え、地主階級内部の平等化が進む→勤勉となった小地主と労働者階級の所得・労働比率はしだいに平等化していく。しかし長期的はスミスはオプティミストであったが、短期的にはリアリストであった。地主が負担する土地税を増税し、利子生活者に課税する印紙税・登記税を強化、そして必需品消費税を廃止するなどの税制改革を提案している。そして通行税・家賃税・相続税などの累進的税制を支持し、それによる所得再分配をはかり所得の平等化を可能な限り実現しようとしたのである。▼(2021年3/22記)

simmel20.hatenablog.com