「ニーチェ」というポリフェノール


 まだまだ「ニーチェ」は、ブランドなのであろうか。ポリフェノールが解毒の〈神〉だとすれば、「ニーチェ」は、有毒であるからこその〈神〉なのであろうか。廃刊となった雑誌『大航海』(新書館)最終号の「ニヒリズム」特集、とくに三島憲一氏の論考を思い起こす。かつてHP記載の記事を再録しておきたい。

◆人文系の『大航海』(新書館)が、71号を最後として終刊が決まった。「ニヒリズムの現在」の特集をもって幕というのも、編集者の意図が感じられて、その無念さが伝わってくる。「毎号、特集というかたちで問いかけてまいりましたがそのすべてが無意味だったと考えますと恐ろしくなります。不必要なものは消え去るべきですが、編集に問題はあっても内容に問題があったとは思いません」と編集後記に記され、痛々しい。
 巻頭論文の佐伯啓思氏の『金融ニヒリズムと「現代の危機」』は、金融危機の問題とは、一時的な危機というよりは、「近代のプロジェクト」がもたらした文明史的な問題の帰結であり、「価値」と不可分の「文化」の衰退の問題であるとしている。「近代のプロジェクト」とは、科学と技術にもとづいて合理的な制度設計をもくろむことであるが、個々のミクロ的経済主体の利益計算はできても、金融市場というシステム全体の不安定性は制御できない。そして科学的(専門的)な回答のみが求められ、「いかなる社会がのぞましいか」という哲学的な問いかけは放棄されてしまう。
……これはニヒリズムの典型というほかはない。まさに、われわれの眼前で展開された金融市場の大混乱に始まった経済危機は、現代社会のニヒリズムの様相を浮かび上がらせた。しかし、そうだとすれば、これは金融市場の一時的失調などというものではない。政治・経済・社会の全般を覆う「無・意味化」であり、景気が回復しようがしまいが、そのこととは関係なく「現代社会の全般的危機」というべき事態というほかないであろう。……
 松原隆一郎氏「金融資本主義とニヒリズム」は、経済思想史的な考察を土台に、現代資本主義における消費行動とその目的との関連について鋭い指摘をしている。F.ナイトによれば、将来の事象についての推理には、1)先験的確率(数学的な場合分け)、2)統計的確率(経験データからの確率)、3)1回限りの現象に関する推定の三つがある。現代のグローバル化した金融資本主義においては、アダム・スミス風の「立場の交換」による「推論」は成り立たず、「不確実性」に操られる市場の動向を「推定」してなされる「投機」が決定的となる。この「推定」は多数がどう動くか判断する「推定」であり、そこで生まれた不確かな「確信」が「投機」行動を促す。そして、労働・土地・資本・(知識)も投機の対象となり、資産としての価値が問われる。もはや消費行動・生活も、それ自体の意味を喪い、「アメリカとともに日本経済が形成した金融資本主義においては、いまなお消費することは資産価値に依存してしまっている」。
 面白かったのは、三島憲一氏『「ニヒリズム」の話は無意味だからもうやめましょう』と、栗原裕一郎氏の『『ゼロ年代の想像力』の掲げる「決断主義」ははたして「ニヒリズム」なのか』の二論文。三島氏は、19世紀は宗教(キリスト教)復活の時代であり、ニーチェの対決姿勢から、宗教の衰退に近代人(現代人)の価値喪失の淵源を求める議論は歴史認識として誤解であるとし、さらに東洋の思想(仏教・老荘)あるいは神国日本の伝統によって、西洋の危機を克服する類いの議論は、「自分の出自からのたえざる離脱」を生きようとしたニーチェとは無縁であるとしている。
 栗原氏は、高度成長期の「大きな物語」が有効性を喪い、さまざまな「小さな物語」のバトルロワイヤル状況が成立しているとする、いまやクリシェとなったポストモダンの言論の誤謬を批判している。たしかに、いつの時代も未来は茫漠としていて、「がんばれば、豊かになれる」という「大きな物語」など存在していなかったと、考えたほうがよいだろう。また次の経済学的認識も思索と考察の前提として無視できない。
……格差の拡大や貧困にしても、日本の場合は新自由主義的「小さな政府」の帰結というよりも、バブル崩壊を処理するための経済政策—主に日銀の金融政策—でヘタが打たれたせいで経済成長が長期にわたって低迷してしまい雇用状況が悪化したのが主な原因である、というのが経済学方面では一般的認識である。……(2009年7/5記)

ニーチェ (岩波新書)

ニーチェ (岩波新書)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町に咲く、上クレマチス、下ヒラドツツジ(平戸躑躅リュウキュウツツジ)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆