秋の蝶とアフォーダンス

 花々の演出するいかなる環境にアフォード(afford)されて、秋の蝶たちは舞ったり止まったりするのであろうか。

(アゲハとデュランタ・レペンス)
ツマグロヒョウモン
ヤマトシジミ♀)
 http://tamekko.hatenablog.com/entry/20100228/p2(「トイレのアフォーダンス」)
 河野哲也玉川大学准教授の『善悪は実在するか—アフォーダンス倫理学』(講談社選書メチエ)は、個人的にはかつて読んだ小原信の『状況倫理の可能性』(中公叢書)を思い出させる。環境と動物の相互依存関係に基づいた知覚論である、アフォーダンス論から説き起こして、主観主義に対しての客観(実在)主義、近現代法的社会における画一性に対しての多様性、および普遍性に対しての個別性の重視、さらに人間中心主義に対しての生態学的発想などの立場(むろんそれらは有機的に連関している)に立った倫理・道徳の構築を模索している。議論展開ごとに、〜は〜と言っているとの引用紹介が煩わしいほど多いのは、研究者としての誠実さであろうが、たとえば次のような紹介は、権威主義というほかあるまい。わざわざフーコーなど持ち出さなくても、みずからの確信で語れるところではあるまいか。
……ミッシェル・フーコーは次のように述べる。近現代社会では復讐したいという欲求は、人びとが自分の位置づけを見出せない一般的な社会制度・政治形態に委譲されている。しかし、「人びとは根本的にはこの制度が耐えられず、理解もしないし、受け入れもしない」のだ。この「理解もしないし、受け入れもしない」点がとくに明瞭に現れるのは、犯罪被害者の司法とその裁判に対する不満の中においてであろう。ここに法化された社会の問題点を見ることができる。……
 アフォーダンス(affordance)とは、「afford=提供する」の動詞からギブソンがつくった言葉で、ギブソンによれば「環境が動物に提供するもの、良いものであれ悪いものであれ、用意したり備えたりするものである」とされる。その特徴は、客観的で個別的な特性であるということだ。さらにその環境とは、自然環境のみならず人工的環境および社会的環境も含まれるというところが重要である。「アフォーダンスとは、動物の行動が組み込まれるような生態学的出来事(事象)を生じさせる環境の特性のことである。動物はそれを直接に知覚するのである」。
 ある行為の道徳的性質はその効力の対象となった人(たち)の利益・不利益によって「定められる(決定される)」とし、道徳的性質の客観性・実在性を主張する。そこでこのアフォーダンス理論を敷衍するわけである。
……この点について、アフォーダンスが個々の動物固体に応じた環境中の価値であること、また健康という生命的規範が平均値に還元できず、個別的・個性的なものであることを思い出すべきである。利益・不利益も、アフォーダンスや健康のように個別的で実在的な性質である。たとえば、ある食べ物が一般的には滋養豊かな美味なものであっても、ある人にとってはアレルギーを惹き起こしたり、消化不良を起こしたりするようなものであるならば、その食品を食べることはその人にとっては利益とはならないのである。……
 しかし本人の利益・不利益は、「良薬、口に苦し」とあるように必ずしも主観的判断(快楽・幸福など)だけでは決められない。この判断については、行為の影響を受けた人とのコミュニケーションが最も優先されるべきだという。なるほどセクハラ事件などの場合を考えれば首肯できる。ただ手続きとして不可欠であるということで、「討議倫理(ハーバーマス)」がすべて正しい判断を導くという保証はないだろう。
 人間の自然性には、サド侯爵が強調した利己主義のみならず、共感の心的能力と互酬的な関係性があり、それこそが人間が生物の進化に耐えられてきた原因である。アダム・スミスは、『国富論』の利己主義論と、『道徳感情論』の共感(同感)の理論で市民社会を理論化しようとしたが、互酬性に考えが及ばなかったため、強制性(規範性)をもった道徳理論の構築に成功しなかった。行為に対する当然の返答の行為がなされない場合、相手側に懲罰的な報復がなされる関係が互酬性だからである。
……それに対して、普遍化された道徳規範では、その規範は法的社会が指令するものとなる。ここに道徳性は、相手との直接的な接触と交流を失い、三人称的な立場にある国家に媒介されたものとなり、規則(法)として存在しはじめるようになる。以降、法は、互酬的関係性における権利と義務を、国家との関係における権利と義務へと書き換えていく。ここに道徳的判断は法社会化するのだが、近代的な倫理学がほぼつねに法的な観点をとるのは、それゆえなのである。……
 ひところ流行った「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題の立てかたじたい「法的な観点」に立っているというのだ。特定の誰かについて殺してはいけないのかという問いかたが考えられるべきなのだ。ただちに相手(その仲間)の報復ということが想像されるから、殺人は不可能という結論になる。ところが内面中心主義・心理中心主義では、一般論としての殺人の禁止は根拠づけられなくなってしまう。なるほど当時返答に窮した大人が多かったわけだ。
 河野氏は、国家をたんなるmediateするだけの機関として、共感と互酬性(恩恵と復讐の二つの側面をもつ)によって成立保持される直接性の共同体を理想としているようであるが、資本主義というシステムの考察が欠落しているようである。

善悪は実在するか アフォーダンスの倫理学 (講談社選書メチエ)

善悪は実在するか アフォーダンスの倫理学 (講談社選書メチエ)

  • 作者:河野 哲也
  • 発売日: 2007/10/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の、ルリマツリ。蝶の写真ともども小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆