絓秀実氏は、『ヨーロッパにおける1920年代問題が、日本の60年代初頭において、「市民主義者」丸山眞男を含む構造改革派と黒田寛一とを両極とする対立として現出していた』とし、その間に市民主義者・鶴見俊輔のアナキズムと、「急進インテリゲンチャ運動」の先行性を主張した吉本隆明が存在している、と俯瞰している。丸山眞男の市民社会論がきわめてグラムシ的であるのに対し、吉本隆明と黒田寛一との対立は、「ソレル的あるいはローザ・ルクセンブルク的な暴力的マッセンストライキへの憧憬を拭えないルカーチと、レーニン主義的な党を目指すルカーチという、『歴史と階級意識』の二面性を反映している」とのことである(p.230)。ヨーロッパマルクス主義の二つの源流が、日本の60年代思想(史)にも大きな影響力を及ぼしていたということ、このことは面白く、もう少し調べてみたいが、現代の格差問題との関連では、次の指摘に考えさせられた。
かつては、アンダークラスの労働者階級に対する疚しさがあった。日本では有島武郎の「宣言一つ」以来知られているそれである。それは、小ブルジョワ知識人が労働者階級や貧農との差異を、「いわれのない」ものと認識したからであった。彼ら知識人は、自分が属するアッパーミドルクラスからの労働者に対する階級差別が理不尽であると知ったがゆえに疚しさを感じたとも言える。それは、自由で平等であるべき人間が、それぞれの階級に資本主義によって分離固定されていることからくる差別である。ところが、現代においては、誰もが階級的差異の「いわれ」を知っているがゆえに、疚しさを持たない。ただ「かわいそうだが、しかたがない」と思うだけなのであって、そこに古典的な階級差別は生じにくいのである。もちろん、「かわいそうだが、しかたがない」という意識は、例えば「要塞都市」ロサンジェルスに見られるような貧富の分断をさまたげるものではないが——。(p.345)