文学の条件とは

 http://www.yomiuri.co.jp/life/book/news/20150629-OYT8T50214.html?cx_text=10&from=ytop_os_txt2
   (「文学青年押し通した人生 作家・辻章さん偲ぶ会 」)
 残念ながら『ふぉとん』を手にする機会はなく、辻章さんの作品を読んだことはないが、この記事の次のところは感銘を受けた。
……02年、「時の肖像 小説・中上健次」を出した際、「中上も私も、文学とは、徹底して個人的なもので、発表したり、賞を取ることではなく、生きていることそのもの、何かを納得し、解決しようと書きながらもがく瞬間にこそ、まっとうな文学があると考えていた」と語っていたのを思い出す。……
 かつてHPに記載した記事を再録しておきたい。

◆文藝誌『ふぉとん』を主宰している辻章氏は、青年時代に政治的活動家として過ごし、「政治、哲学、思想等の著作は常に傍らにあった(「東京新聞」6/23号)」とし、しかしそれらの全てをひっくるめて一つの「文学」として感得していたと思い起こしたようだ。
……思想も哲学も社会科学もそれぞれの形態の文学表現であったので、「文学」はそのどれとも次元の異なる「全体」「全部」なのだった。思想も哲学も私には、それを文学の次元で取る時、はじめて体得的に理解に達し得るように思われたのである。……
 思想も哲学も社会科学も、つまるところは一般的にこの世界とは何かと問いかけはするが、どこまでいっても「一般的に」であって、自分にとってこの世界は何かという問いかけではあり得ないのである。私見では、「大学教授」や「評論家」にとっては、それらの探求の〈成果〉は、地位の向上の契機もしくは原稿料の源泉となっても、社会的にそのような立場にない者がそれをなぞって〈お喋り〉をしても何の意味もない。
 辻章氏は、文学は、「私のこの生、私のこの世、そのものを暴き表現すること」で、「それができる(と私に思わせた)」唯一のものだった、と述べている。しかるに、現代日本の文藝界も「業界」となっているマス・文藝情況の中では、一対一での世界と表現者との対峙が可能ではなくなっているのではないか、と氏は、危惧する。
……文学が、文学として存立して、「世界は一冊の書物の中にある」と昂然として言い放つことができるのは、それがついに一対一で世界と対峙するものだからではないか。それこそが他のどんな学問、思想からも文学を分かつ絶対の、歴然たる条件だったのではないか。……(2008年7/7記)