文学としてのブログ

 文芸誌『ふぉとん』主宰の辻章氏は、青年時代に政治的活動家として過ごし、「政治、哲学、思想等の著作は常に傍らにあった(「東京新聞」2008年6/23号)」とし、しかしそれらの全てをひっくるめて一つの「文学」として感得していたと思い起こした。
……思想も哲学も社会科学もそれぞれの形態の文学表現であったので、「文学」はそのどれとも次元の異なる「全体」「全部」なのだった。思想も哲学も私には、それを文学の次元で取る時、はじめて体得的に理解に達し得るように思われたのである。……
 思想も哲学も社会科学も、つまるところは一般的にこの世界とは何かと問いかけはするが、どこまでいっても「一般的に」であって、自分にとってこの世界は何かという問いかけではあり得ないのである。私見では、「大学教授」や「評論家」にとっては、それらの探求の〈成果〉は、地位の向上の契機もしくは原稿料の源泉となっても、社会的にそのような立場にない者がそれをなぞって〈お喋り〉をしても、あまり意味がない。
 辻章氏は、文学は、「私のこの生、私のこの世、そのものを暴き表現すること」で、「それができる(と私に思わせた)」唯一のものだった、と述べている。しかるに現代日本の文藝界も「一業界」となっている、マス・文藝情況の中では、一対一での世界と表現者との対峙が可能ではなくなっているのではないか、と氏は、危惧する。大いに共感するところがある。
……文学が、文学として存立して、「世界は一冊の書物の中にある」と昂然として言い放つことができるのは、それがついに一対一で世界と対峙するものだからではないか。それこそが他のどんな学問、思想からも文学を分かつ絶対の、歴然たる条件だったのではないか。……
(脱線しつつも)文学としてのブログを心がけるというのは、その姿勢においてであって、長短を問わず作品として自立した場合のみ、文学が成立する。ブログと文学作品との径庭(けいてい)を埋めるのは、才能というよりは、表現の修業で得られる技であろう。お相撲さんと同じく、「稽古をするしかないでしょう」ということなのである。