絓秀実『吉本隆明の時代』(作品社)を読む(1)

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 とうぜん読むべきなのに未読であった、絓秀実氏の『吉本隆明の時代』(作品社)を、Amazon経由で購入、さっそく読み始める。鮎川信夫平野謙の批評に言及しつつ、アンドレ・ジッドからサルトルへの対立的継承のアナロジーとして、小林秀雄から吉本隆明への対立的継承を捉えている。そして1968年パリでの「五月革命」までは世界的に確かに存在した「サルトルの時代」とほぼ同様の意味において、「吉本隆明の時代」と呼べるような時代が過去の日本に存在した、との認識を前提にしている。経験的に納得できる指摘である。読み進めよう。ただ、思想史的文脈を抜きにして、哲学者・作家としてのサルトルと、あくまでも詩人であった吉本隆明との残された仕事をめぐる大いに異なるところは軽視できないだろう。

 平野謙の人民戦線史観は、小林を世界史的な知識人界の文脈に位置づけるという意味でも、決して無駄ではなかったと言える。事実、平野謙の史観はサルトルの「生けるジッド」をもじって言えば、マルクスハイデッガーベルクソンドストエフスキーランボーニーチェ、シェストフなどその参照項がどのようなものであろうとも、日本の全ての文学と思想は小林秀雄との関連で規定されなければならなかった時代があったと、小林を特権化し歴史化してみせた「語り」であった。それは、小林秀雄の周辺の人間にとってさえ利益のある、小林の卓越化であったわけである。(p.17) 

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    (「東京新聞」2009年1/18朝刊 )
 

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