『週刊読書人』6/7号の対談「没後20年江藤淳」を読む

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f:id:simmel20:20190613142113j:plain(わが蔵書)

週刊読書人』6/7号の対談「没後20年江藤淳」を読んだ。『江藤淳は甦える』(新潮社)を上梓した平山周吉氏と、先崎彰容(あきなか)日本大学教授(日本思想史)との、文藝評論家江藤淳をめぐる対談である。没後もう20年になるのかと驚いた。自殺した日のそれほど前ではないある日、都営三田線の席に江藤淳さんを目撃している。
 三島由紀夫との思想的関連についての、二人のやりとりのところが興味を惹いた。

平山三島由紀夫の死は昭和45(1970)年でした。江藤さんはその時、三島の死を批判したわけです。その翌年には小林秀雄と江藤さんの対談があって、火花を散らす論争になりかけた。三島が戦後25年の日本を相当厳しく批判して死んでいって、実は江藤さんの死は三島の死の延長線上にあったのかなということを読めば読むほど思うようになってくるんです。

先崎:今三島の話が出ましたが、もうひとり大事な存在として、伊東静雄がいると思います。初期のころ、「中央公論」に書いた「石原慎太郎論」の冒頭は伊東静雄の詩の引用から始まりますし、「がくりと折れたというような感じがある」という印象的な言葉をもつ「伊東静雄論」もあって、江藤さんは日本浪曼派の詩人である伊東のことがとてもお好きでした。江藤淳はよく『小林秀雄」を書いた前後、アメリカ留学中に転向したと言われますが、僕はそれには反対です。江藤は最初期の「神話の克服」の時点で、保田與重郎らのロマン主義を批判していますが、これはアメリカ留学中の講演録「近代日本文学の底流」や「日本文学と『私』」などでも展開されているからです。最晩年の作品『南洲残影』では、突如、蓮田善明の話まで出てくる。つまり江藤にとって、三島も所属した日本浪曼派的な気分は、生涯の大きなテーマであったと思います。……

 2014年8/4のわがブログで、かつて江藤淳に関して書いたHPの記事を載せている。

▼同人誌の傾向として同人誌的小説というものが多いらしいが、詳らかにしない.昔文藝評論家の江藤淳が「朝日新聞」の文藝時評で、同人誌の作品を採りあげたことがあった.わがHPの記述を再録しておこう.

「たまたま私は同人雑誌『花』の正月号に発表された葉山修平氏の「黒い虹」という中篇小説を読んで、ここにも「天皇陛下」が投影しているのにおどろいた。これは戦争中の田舎中学生の日記の体裁に終始している風変りな小説で、「靖国の鬼」という「死」の象徴のなかにのみエロスを感じている萠芽的な段階のエロティシズムを描いた作品である。もしこの問題を逆の角度から見直せば、暗示されているものの意味は大きいであろう。それは、おそらく有機的に統一された過去への渇望である。現実の「過去」がそんなものではなかったことは誰もが知っている。しかし人は望むように夢見るのであり、これらの作家は人々の胸に眠る願望を、各々のかたちで鋭敏に捕らえはじめているのかも知れない。」(江藤淳文芸時評』新潮社)
 これは「朝日新聞」の1960年12月の「文芸時評」の最後の箇所である。江藤淳が、1)エロスの衝動が美化された過去=国家にむかう可能性に注意を促していたこと、2)大江健三郎の「セヴンティーン」と、三島由紀夫の「憂国」と並んで、(当時)全く無名の葉山修平氏の、それも一同人雑誌に発表された作品を、対等に取り扱っていること、この二点を、今後江藤淳という文学者を語るとき忘れないようにしたいものである。(2001年8/9記)