禅的実在体験の全体的構造(2)

 無「本質」的分節の現出する存在風景がどんな性格のものかといえば、
……分節された花は花として現象しているし、分節された鳥は鳥として現象しているが、無「本質」の花には花の凝固性がなく、鳥には鳥の凝固性がない。だから互いに浸透し合う。まさに「鷓鴣(しゃこ)啼くところ、百花香(かぐわ)し」であって、それを無「本質」の人が「(長(とこしなえ)に憶(おも)」っている。憶う意識も、無論、鷓鴣と百花とに対立する「我」の主体性ではない。……(同書p.168)
 さてこの無「本質」的分節それ自体の内部構造、および分節がいかにして「本質」ぬきで生起しえるかについて、「意識と本質」の観点から分析を試みている。
「無」すなわち無分節には、存在の限りない創造的エネルギーが瀰漫(びまん)していて、花や鳥を現出させる。しかしこの花や鳥は、たしかに分節ではあっても、分節(Ⅰ)の場合のように局所的限定ではない。現実の全体が花や鳥であって、局所的限定が入り込む余地はまったくないのである。分節された花や鳥は「互いに透明であり、互いに浸透し合い、融け合い、ついに帰して一となり、無に消える」。分節された諸物相互の間に、存在相通が成立するということである。そして、「消えた瞬間、間髪を容れず、また花は咲き鳥は啼く」というように、無分節と分節の間の、「電光のごとく迅速な」次元転換が不断に繰り返されていくのである。分節(Ⅱ)の存在次元では、あらゆる分節の一つ一つがそれぞれに無分節者の全体顕現であって、部分的、局所的顕現ではないのだ。「一葉落ちて秋を知る」とは、俗的意味とは異なり、禅的(あるいは華厳的)了解においては、無分節を通じて、すべてがすべてに内包されているという禅の分節(Ⅱ)的存在了解を指しているのである。したがって無「本質」的分節は、本来、自由分節である。この世界に事物を現出させる存在分節には自由さがある。道元禅師の説くところを紹介している。
……「山水経」を通じての道元の主題とするところは、有「本質」的分節のために涸渇している存在を、無「本質」的分節の次元に移し、本来の生々躍動する姿に戻そうとすることにある。「本質」の束縛を離れた存在のこの生々躍動、流動性、の端的な表現を道元は芙蓉道楷の「青山常運歩(せいざんじょううんぽ)」と雲門文偃の「東山水上行(とうざんすいじょうこう)」に見る。山が歩き、山が流れる、と聞いて人々は驚く。山は不動。流れるのは水ではないか、と。有「本質」的に分節して、山や水を見るからそういうことになるのだ。……(同書p.174)
 分節(Ⅱ)の次元では、全存在がいわば水である。分節(Ⅰ)の次元で水の性質や働きをいくら積み重ねてみても、水の真のリアリティーはつかめないのだ。全宇宙、すなわち水なのである。天人にとっては水は瓔珞(ようらく:宝石の首飾り)と見え、深海の魚にとっては宮殿と見える、その「人見」を超えた高次の視点「随類の諸見不同」をも超えて、「水、水を見る」ところに、道元は導く。ここにおいて「水が水自身を水にまで分節する」ということになり、「分節しながら分節しない」無「本質」的存在分節の真面目があるのである。「言語道断」の禅体験の機微を言語で捉えることの難しさを、思い知らされる「意識と本質(Ⅶ)」読了。
※鷓鴣(しゃこ):キジ科の鳥のうち、鶉より大きく雉より小さいもの総称。
 http://www.kanshin.com/keyword/984036(「関心空間」)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のサザンカ山茶花)その2。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆