「静坐」と「窮理」

 井筒俊彦「意識と本質Ⅳ」(岩波文庫『意識と本質』)では、マーヒーヤ肯定論の第1のタイプの典型として、宋儒(中国宋代の儒者たちの理学)の「格物窮理」をとり上げている。復習すると、「物の表層構造しか見えない日常的意識のかわりに、非日常的な意識、つまり深層意識、の特殊な機能が働いて」のみ「本質」が実在することが把握できる、というのがこのタイプである。「伝達に使用する言語ではなくて、事物を経験的存在の次元で殺害して永遠の現実性に移し」、普遍的実在(例えば、この世の花ならぬ、花のイデー)が「音楽的に」生起するとした、詩人マラルメも同じタイプの「本質」論に分類されるとのことで頁を割いている。宋儒にとって、「本質」をその実在性において目睹(もくと※目撃)することは「緊張と専心を必要とする」意識訓練の実践を通してである。
……が、マラルメの場合に見たような錯乱と狂気の騒擾はそこにはない。大道は整然と「理」の秩序を貫通して宇宙の窮極的根源に達し、その道に従って、人の意識は静かに一歩一歩深化されていく。意識の深層が完全に拓かれて、ついに意識と、全存在界そのものの唯一絶対の「本質」との窮極的自己同一が自覚されるに至るまで。……(同書p.81)
 その意識訓練の方法が、「静坐」と「窮理」で、「窮理」が主要、「静坐」は準備段階と見なされる。意識と存在、内と外は密接な相関関係にあり、窮極的には同一であるとの宋学の基本的考え方が前提となっているので、わかりにくいところがある。
 まず「静坐」。表層意識は、様々な内的動きの連続であるが、この状態が「已発(いはつ)」である。「感情であるにせよ、意志にせよ、欲情にせよ、想念にせよ」一つの内的緊張は、ある時点まで来ると弱まり弛緩し次の新しい緊張に入る。つまり断続していて、その一つの「已発」から次の「已発」への瞬間的割れ目の状態が「未発」である。ふつうは気づかないこの「未発」の状態も、訓練によって捉えることができるようになる。「静坐」とは、この訓練法なのである。坐禅のように心を空無にしてしまう訓練ではなく、「むしろ経験的世界の真只中で、心の動そのものの中に心の静を求めようとする」のである。修行によって、表層意識の面上で「未発」の占める場所が圧倒的に広くなり、さらにその領域が意識の深層に深まっていく。ついには、「意識の最後の一点、意識のゼロ・ポイントに究極する」。「絶対的不動寂寞の境位」に達するということである。ところが今度は「逆にあらゆる心の動きがそこに淵源しそこから発出する活溌な意識の原点として自覚なおされなければならない」。 深層意識における「未発」は「已発」の根源として自覚され、意識「未発」が意識「已発」の源泉であることによって、そのまま全存在世界生起の源泉でもあるということになるのである。形而上的「未発」が形而下的「已発」として発動していく微妙な一点に、全存在界を統合的に基礎づける純形而上的「理」が成立するが、この「理」の意味するところは、実在する普遍的「本質」ということである。
……宋儒たちによれば、経験的世界で我々の表層意識(「已発」)の対象となる一切の事物を深層意識の極点(「未発」)において余すところなく無化し、無化しながら、しかもそれらを窮極的一者として基礎づける(「無極而太極」)唯一絶対の形而上的「本質」があって、それらが千々に分れ、特殊化して、存在の形而下的次元で無数の「本質」を形成する。それら下次元の「本質」を一つ一つ徹底的に考究し、経験界に拡散するすべての事物を、それぞれの「本質」に還元しつつ、それらを唯一絶対の「本質」まで追求しようとするのが「窮理」の道である。こうして「静坐」は「窮理」に直結する。「未発」を意識と存在の両面において先ず味識(みしき)することなしには、「本質」の探求はついに表層意識の領域を抜け出ることができない。……同書p.87)
「窮理」は、すべての存在者の内奥には「本質」がひそんでいるとの存在論的確信があっての修行道程であって、事物に普遍的「本質」など認めない、仏教の禅と全く違うところである。修練の初めでは、個々の「理」の形而下的側面だけを見て、形而上的側面を見ないが、しかし「驚天動地の実存的体験として」あるときのこと、すべての「理」の形而上的側面を、その究極の一点において一挙に見てしまうのである。この体験こそ朱子の「豁然(かつぜん)貫通」である。 
 修練の過程で「已発」でありながら、しかも全体が「未発」の状態、つまり動でありながらしかも静の境地には、なかなか達しないものである。ここで著者がその境地を喩えている『易経』「艮為山(ごんいざん)の卦」の「艮其背。不獲其身。行其庭。不見其人。无咎。 ⦅その背に艮(とど)まりてその身を獲ず。その庭に行きてその人を見ず。咎なし。⦆」に感心して、わが家の庭に出たところ、芝生のなかにクルマバッタが棲息しているのを発見。さっそく捕獲しようと近づくと飛んで逃げてしまった。しばらく悔しい思いが消えなかった。どうも形而下的「已発」のみの状態で、「その庭に行きてバッタを見る」が「見ず」に変わっただけであった。情けなし。「意識と本質Ⅳ」読了。

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の木立性ベゴニア。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆