禅的実在体験の全体的構造

 井筒俊彦「意識と本質Ⅶ」(岩波文庫『意識と本質』)。禅仏教における存在の無「本質」的分節の内的構造を、意識論および存在論として考察するのがここでの主題である。注意すべきは、禅の実在体験の全体構造は、著しくダイナミックなものであることで、主客の対立を超えて「深い瞑想に沈みこんだ意識の観照性に究極する」との捉え方は、根本的に静的(スタティック)であって、これでは「禅が禅として生きていない」のである。
 修行道としての禅は、悟りすなわち見性体験が中心である。その修行道程は山の形=三角形に形象化できる。底辺は経験的世界、頂点である見性体験に向う向上道=未悟と、頂点から経験的世界に向う向下道=己悟の2本の線がある。「本質」がこの過程で段階ごとに変貌して現われてくるのである。この過程は、分節(Ⅰ)→無分節→分節(Ⅱ)の形に置き換えて理論的に把握できる。
 分節(Ⅰ)と分節(Ⅱ)とは、全ての事物がそれぞれ己れの存在性を主張する形而下的存在世界であるという点では、表面的には何の相違もない。しかし分節(Ⅱ)は、無分節という形而上的「無」の一点を経ていることによって、分節(Ⅰ)とはその内的様相を根本的に異にする。道元禅師の「而今(にこん)の山水」とは、「現にそれぞれ山と川として分節されているにもかかわらず、山であること、川であることから超出して自由自在に働いているのだ」ということなのである。
 この全体構造を「的確かつ明快に提示したもの」として、青原惟信の言葉がある。見性する前には、「山を見るに是れ山、水を見るに是れ水」であったが、いちおう見性してある程度の悟りの目を開けば、山も川も、あらゆる事物が「本質」という留金を失い、山は山でなく、川は川でなくなってしまう。ところが、悟りが深まり「休歇(きゅうかつ)の処を得て」、一たん無化された事物がまた有化されて現われてくる。しかし山は山として川は川として存在するが、「見山(川)秖(ただ)是山(川)」、もはや「本質」的凝固性をもっていないのである。ここにおいて「禅の存在体験は、サルトル的実存体験とはまるで違ったものになって」いる。
 イスラームでは、神の天地創造とともに事物の「本質」が与えられたとするが、仏教では、「唯だ妄念に依って差別あり。もし妄念を離るれば唯だ一真如なり」(法蔵)とし、これはそのまま禅の存在論にも当てはまる。つまり、表層意識が「本質」仮構的に働くから、事物の分節が起きるのだということなのである。存在分節は本当は妄想分別にすぎないと悟ることが、向上の第一歩である。事物の無「本質」性は、大乗仏教では「空」と呼び、「本質」にあたる語が「自性」であるから、無「本質」性の意味での「空」は「無自性」ともいう。禅では、この「空」の理性的理解を求めるのではなく、一人の実存的了解、「意識そのもののある根本的次元転換を予想する全人間的了解」を要求しているのである。「鏡を打破し来れば、全く彫像無し」(了庵清欲)という意味での無分節とは、「仏に逢っては仏を殺し」(『無門関』)、表層意識が完全に打破され尽くしたところにはじめて現われる深層意識的事態のことである。
 消極的な意味での「無」ではなく、無分節の意識的側面である「無心」と肯定的表現の「心」とは、究極的に同義語として使われるのが禅の顕著な特徴である。「心」には、「絶対無分節者が本源的に内蔵する存在エネルギー」が示唆されていて、「大いなる哉(かな)、心や」(栄西禅師)なのである。絶対無分節から分節(Ⅱ)へとダイナミックに動いていく、「真空妙有」の実在そのものの本然の道に従って、禅者も「空」に堕することなく、修行道の後半、向下道という形でそれを追体験しようとする。しかし分節(Ⅱ)の実態把握はむずかしく、「山河大地を転じて自己に帰するは則ち易く、自己を転じて山河大地に帰するは則ち難し」(長紗景岑)である。To be continued
※休歇:きゅうかつ・きゅうけつ 1:やめること。全くあとかたないこと。2:大安心のところに安住すること。諸縁を離れて休息すること。中村元著『佛教語大辞典』(東京書籍)
(「NHK・1977年3/3放送『永平寺』」)