プラトンにおける「詩人」:神崎繁『プラトンと反遠近法』から



 神崎繁専修大学教授(当時は東京都立大学助教授)の『プラトンと遠近法』(初版1999年・新書館)は、第一章「ミメーシス」しか読んでいない。しかしここだけでも十分面白かった。いわゆる現代思想とは、あたり前ながら西洋哲学・思想の伝統あっての思索であることを、警告してくれる本の一冊である。
 第一章「ミメーシス」において、プラトンの『国家』第3巻と第10巻との「詩人」に対する扱いの相違について考察している。第3巻では、「ポリスの指導者となるべき若者に対する教育に関して」一定の範囲の有用性が「模倣(ミメーシス)」に認められている。いっぽう第10巻では、「模倣」を本質とする「詩人の追放」が強く主張されている。小池澄夫氏の指摘(「ミメーシス」『哲学の冒険6:コピー』)を紹介し、詩文に一定の評価が与えられた第3巻のミメーシスは主として聴覚的な比喩(似せる)によっているのに対して、第10巻のミメーシスは視覚的な比喩(真似る)によっている、とする。基本的に聴覚が受動的な感覚であり、視覚が能動的な、「いわば何かに向ってそれを射当てる」感覚であるという違いに由来している。ミメーシスが「似せる」という点で本質的な違いはないが、第3巻の「ミメーシス」は、「自己自身を何らか他者に似せ、同化させていくもの」であるのに対して、第10巻の「ミメーシス」は、「自分以外の事物を他の事物によって模倣、表現すること」を意味している。
 第3巻の最初に、詩の叙述形式をめぐる分類をしている。1:詩人が自分自身として、物語の内容を三人称的に語る形式 2:演技・模倣による語りで、「詩人は自分の語り方を、これからその人が語ると告げたその人物にできる限り似せようとする」、悲劇や喜劇の役者の台詞に採用される形式 2:「この両者の形式を適宜交代させながら」、交互に語る混合的な形式で、ホメロス叙事詩を典型とする。あくまでも、若者の教育に関して、詩の果す役割を念頭に置いた分類である。「徳ある者となるべく修練しつつある者」に、この混合的語りが、「立派な行為を語る物語を聞きそれを模倣する場合には、自らのこととして語ることによって、これを同化し、そうでない行為を仮になすような場合には、これを客観的に語ることで異化するという意味において」有益であるとの考えを想定しての分類なのである。
 第3巻と第10巻の詩に対する矛盾した態度に関して、第10巻では、「詩人の描く対象が知性に訴えかけることが少なく、より多く感情を昂ぶらせる種類のもであるという認識が前提」とされている。
……「とりわけ、祭りや劇場に集まってくる種々雑多なひとびと」という表現が印象的に示すように、「模倣」が本質的にもつカーニヴァル性が剔抉(てっけつ)されているのである。とすれば、第3巻における「模倣」の教育的効果は、第10巻の観点からすれば、このように本来毒性を含んだものを、薬として善用するという意味合いを持つであろう。……(p.49 )

       (わが書庫の岩波『プラトン全集』)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20130703/1372864427(『NHKEテレ「 100分de名著・プラトン“饗宴”」は面白い:2013年7/3 』)