ここに薔薇がある、ここで踊れ。


……Hic Rhodus, hic saltus.
 (ここがロドスだ、ここで跳べ)※1 
 存在するところのものを概念において把握するのが、哲学の課題である。というのは、存在するところのものは理性だからである。個人にかんしていえば、だれでももともとその時代の息子であるが、哲学もまた、その時代を思想のうちにとらえたものである。なんらかの哲学がその現在の世界を越え出るものだと思うのは、ある個人がその時代を跳び越し、ロドス島を跳び越えて外へ出るのだと妄想するのとまったく同様におろかである。その個人の理論が実際にその時代を越え出るとすれば、そして彼が一つのあるべき世界をしつらえるとすれば、このあるべき世界はなるほど存在してはいるけれども、たんに彼が思うことのなかにでしかない。つまりそれは、どんな好き勝手なことでも想像できる柔軟で軟弱な境域のうちにしか存在していない。
 さっきの慣用句は少し変えればこう聞こえるであろう—
  ここにローズ(薔薇)がある、ここで踊れ ※2
 自覚した精神としての理性と、現に存在している現実としての理性とのあいだにあるもの—まえのほうの理性をあとのほうの理性とわかち、後者のうちに満足を見いだせないものは、まだ概念にまで解放されていない抽象的なものの枷である。……(ヘーゲル「法の哲学」藤野渉・赤澤正敏訳:中公『世界の名著35』所収pp.171~172)
【同書注から】
※1イソップ物語』に、あるほら吹きが、ロドス島でものすごい跳躍をやらかしたこと、おまけにそれを見ていた証人たちがいたことを自慢したので、聞いていた人たちが「お前さん、もしそれがほんとうなら、証人なんかいらない。ここがロドスだ、ここで跳べばいい」といった話がある。
※2ギリシア語のロドス(島の名)をロドン(ばらの花)に、ラテン語のsaltus(跳べ)をsalta(踊れ)に「少し変えた」しゃれ。ヘーゲルはここにギリシア語もラテン語も記してはいないが。
 カール・マルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18 日』で、この二つのことばが反芻されてるが、平凡社ライブラリー版同書の訳者植村邦彦氏は訳注において「ヘーゲルの場合には、これ(※後の言葉)は、理性(喜びのしるしであるバラ)の認識によって現実と和解することを意味する」(p.205)と説明している。
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町の(鉢の)薔薇祭出展の薔薇。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆