NHK・Eテレ「 100分de名著・プラトン“饗宴”」は面白い


 本日夜11:00~11:25放送のEテレ番組「 100分de名著・プラトン“饗宴”」は、進行役の一人伊集院光さんの巧みな誘導もあって、面白かった。講師は、慶大教授の納富信留氏。高校のかなり下のわが後輩にあたるそうである。すでにその著書の一冊について紹介したことがある。そのときからファンとなっている。教授TV出演とのFacebook同窓会の情報で、はじめてこのシリーズの番組を視聴した次第である。第2回以降も愉しみ。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20110607/1307428641(「哲学的センスとはなにか」)





(「わが所蔵の岩波『プラトン全集』)

◆地中海文化を語る会編『ギリシア・ローマ世界における他者』(彩流社)は、枝のテーマ設定に直球と変化球の両方があって、いずれも興味深く西洋古典学の勉強になる。川島重成氏の「〈ダイモーン〉の顕現」は、『イリアス』『オイディプス王』『ソクラテスの弁明』に通底するものとして、〈ダイモーン〉経験があるとし、それは、人間を超えた存在への戦慄の経験であり、原初的な〈神〉経験である。このアモルフなダイモーンがやがて、特定の名前と個性をもったオリュンポスの神々として表象されるに至り、戦慄は、「感嘆=タウマゼインthaumazein」と変化したところにギリシアの合理的精神が誕生したのである。しかしこの合理的精神とは、不死や、無限を求めることなく、己が限界を覚めた目で凝視する精神性、つまりデルポイの格言「汝自身を知れ」に通じる宗教性と別でなかった、ということである。オリュンポスの神々が昼間の顔だとすれば、ダイモーンは夜の顔であり、
……あのオリュンポスの神々に対する感嘆(タウマゼイン)とともに決定的に歩み始めたギリシアの人間文化(あるいは合理的思考)は、人間を超えるもの、人間にとっての究極の他者、〈ダイモーン〉的なるもの(非合理的なもの)によって裏づけられ、根拠づけられていた、と称してよいのではないでしょうか。……(同書p.49)
 納富信留の「ロゴスと他者―哲学成立の緊張」は、ギリシアにその淵源をもつ哲学とは、「他者」を織り込んではじめて成立する「言葉」による思索であるとして、「他者」をたんに力によって屈服させる相手としかみなさない、ゴルギアスなどの弁論家とは根本的に対立するものであったとし、
…… これに対して、「対話」という言論に従事するソクラテスの哲学は、自己とは決定的に異なる独立の存在としての他者に対峙しながら、その溝を前に、可能な限り共同の探究を目指します。他者との対話なしでは、自己が善く生きることも不可能です。対話とは、自己と他者が火花を散らしながら共に存在していく、生のぎりぎりの可能性なのです。……(同書p.192)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のペチュニアとアゲハ。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆