「bio-diversity」論議

「bio-diversity」論議が喧しい昨今.昨年4月にわがHPで紹介した次の書は、考えるヒントになるだろう.再録しておきたい.

◆農学博士でカメムシ採集人の高橋敬一氏の『「自然との共生」というウソ』(詳伝社新書)は、いわゆる「自然との共生」の主張および活動が、人間中心の思い込みにすぎないことを暴露し批判している。たしかに人間の側の動植物あるいは自然景観保護の運動は、人間以外の側から見れば恣意的で、人間の都合・美意識によって決定されているといえるだろう。この著者の面目躍如の文章は、各章末に著者の好みらしい小さな昆虫の写真に添えられたコメントである。
 珍虫クチナガチビキカワムシを紹介して、
『一般に、大きくて派手な種はアンブレラ種等のいかにもそれらしい特権的な名称を与えられ、時には餌まで与えられて優先的に保護されるが、クチナガチビキカワムシのような地味な種については十分な調査もなされないまま、たとえ絶滅しても気づく人は誰もいない。それはそれで仕方のないことだ。自然の守護者を自認する人たちがどう思うかは知らないが、そもそも人間は自然と共生できるように作られているわけではないし、自然保護自体、社会的権利の保護同様、自分にとって意味のあるもの(のみ)を保護しようとする自分保護の一種でしかない。その場合、自分にとって意味のあるものが目立つものであればあるほど、コトを選ぶのはたやすくなる。』(同書)
 高橋氏は、「利己的な遺伝子」が人間生命の本体であるとのけっこう知られた生物学的前提に立って、遺伝子がみずからの繁栄存続のために人間の種と個体を操り、その方向に適う限りで、人間の種・個体が自然を利用・改変してきたのが、これまでの自然との関わりの歴史であって、いまさら「自然との共生」を主張するのは、身勝手にすぎないとする。しかも保護の対象とされる自然景観も、時代ごとの個々人の郷愁によって存在しているのであって、世代によって異なる望ましい景観(の物語)と、人間以外の動植物の生存条件を広い視野で公平に考えているわけではない。
 足尾銅山鉱毒で人間が住まなくなった栃木県渡良瀬遊牧地、アメリカの水爆実験で無人となったビキニ環礁ソ連チェルノブイリ原子力発電所の爆発事故で「死の地帯」となったチェルノブイリ一帯などは、いま、新しい生き物たちが出現し、「人間の不在」により野生の王国となっているそうである。驚きである。人間の存在そのものが自然破壊の元凶なのだ。この事実を知るだけでも本書を読む価値があろう。
 老荘思想に通じるものを感じる読者もいようが、著者は「自然(じねん)」の自然に身をまかせられるとは信じていない。その点で大いに共感を覚えた。
『だからといって私は、現在も進行している人為的な環境改変が、人間社会の存続に大きな脅威となっているのを否定するわけではない。ただ私は、そうした環境の変化をもはや食い止めることはできないと思っているだけだ。』(同書)(2009年4/20記)

「自然との共生」というウソ (祥伝社新書152)

「自然との共生」というウソ (祥伝社新書152)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の上ペンタス(Pentas lanceolata)、下斑入りのゴシキトウガラシ(Capsicum annuum)。小川匡夫氏(全日写連)撮影.⦆*ペンタスのpentaは、周知のようにたとえばpentagon(米国国防総省←五角形の建物)や、pentoxide(五酸化物)の「5」=ギリシア数詞。5枚の花弁の花の意.ゴシキトウガラシは観賞用の園芸種.