代表制民主主義の問題と一票の格差

……佐伯啓思×大澤真幸対談集『テロの社会学』(新書館)の第1章「預言者と大統領」で、現代民主主義下の代表制に関して面白い考察がある。
大澤氏の発言:近代以前にも代議制はありました。それは各身分を代表する議員によって構成された身分制議会です。これは、人間の中のカリスマ性の濃度に落差があるという観念によるものでしょう。貴族院など、格の高さに応じて政治に発言権があるという考えですね。しかし人間にはアプリオリな威信の落差などあるのだろうか。これが「差がない」ということなら、身分によらず平等に代表者を選ぶべきです。ただしその場合無記名で、誰が誰を選んでいるか分からないような、そういうシステムにならざるをえない。だから近代的民主主義は理論上、人間のあいだにはカリスマのような格差がないことを事実上前提にした制度なんです。
 そのカリスマ性のアプリオリな差異を還元したのが近代的代表制です。しかし、この制度は誰かを代表しているようで誰も代表していない。つまり誰が誰を代表しているのかはっきりしない。「代表するもの/代表されるもの」の関係が完全に恣意的なものになってしまうわけです。誰の代表者でもないわけだから、選ばれた人は勝手に何でもできる。
佐伯氏の発言:政党は特定の階層なり地域なりの利益を代表するもので、政党政治の背後には利益の計算がある。しかし、政党政治がある階級などの利益を代表しなくなると、政治は、特定の階級の利益ではなく大衆の情念や漠然たる期待に訴えるようになる。たしかにカリスマ的政治家は、大衆を代表するように見えるが、じつは何も代表しているわけではない。だから、大衆を代弁するような形で大衆を扇動するわけです。
 この二人の発言に、呉智英(くれ・ともふさ)氏の次の発言を付け加えれば、近代民主主義社会の問題性が浮かび上がってくる。
『よく「共生」と言われているけれど、人間のネガティブな面と「共生」しなかったら、これはうそ。貧困や病気がなくなるわけがないし、差別もそう。差別を無理になくそうとするのは、啓蒙の暴力なんです。人間は暗い顔をしたい時もあるし、怒りをぶつけたい時だってある。不快感や嫌悪感というネガティブな感情は、人間が生身である限り絶対なくなりません。すべての人間に明るい光を当てて、きれいごとだけにしてしまうのは、無気味な社会なんです。』
(聞き手)近代社会を信奉すると、そんな無気味な社会も歓迎する知識人が多くなる、ということになりますが。
『だから、私は怒っているんです。近代社会は一人一人の個性を尊重すると言われているが、逆ですよ。そんなことをしたら、近代社会は成立しません。近代社会を成り立たせるのは民主主義です。選挙は個人が等価値の一票を持っているというのが前提。人々の個性を無視して、抽象的な「国民」と考えなければ、近代社会は成立しない。』(「東京新聞」2007年1/19号)… 
 かつて(2007年1/22)わがHPに記載した記事である。
 今回の衆議院議員選挙に関して、「一票の格差」をめぐる違憲状態を放置したままでの選挙であるので、無効との訴訟が起こされているとのことである。


 最高裁はどういう判断を示すのか、素人国民としてもそれなりの関心をもたざるを得ない。
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の キミノセンリョウ(黄実千両)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆