頂点捕食者がいない世界

 アメリカの科学ジャーナリスト、ウィリアム・ソウルゼンバークの『捕食者なき世界(WHERE THE WILD THINGS WERE)』(野中香方子訳・文春文庫)は、保全生態学・生物地理学の知識ある者は別にして新鮮な驚きを与えてくれる。紹介されている多くの研究者たちは、それぞれのフィールドにおける情熱的で地道な調査・追究によって、じつにシンプルな共通の結論に至るのである。即ち、意外なことに「世界を支配する大きな存在」(ジョン・ターボー)である頂点捕食者の肉食動物なしでは、森と草原のある大地であろうと海であろうと、自然生態系は崩壊してしまうという事実である。
◯ロバート・ペインによれば、太平洋に面したマッカウ湾の岩場で、岩にいる殻をもつ生物を餌食とするヒトデを遠くの海に投げ込んでこれを消滅させると、まずフジツボが岩場の多くを占拠し、その後フジツボを追い出したイガイがその殻で岩場を黒く染めていくのであった。種の多様性が失われていったのである。
○約5億4200万年前に始まった「カンブリア爆発」は、およそ1000万年にわたって進化の実験を繰り返したが、カンブリア紀は生き物にとって「食べる方法と食べられないための方法」が急増した時代であったのである。
◯ジェームズ・エステスによれば、シベリヤに近い北太平洋のシェミア島の海にはケルプの森が見られなかった。ケルプとは、コンブ・ワカメ・ヒジキなど褐藻類の総称で海底にくっついてみずみずしく茂り、海の生き物たちを生かす、海の「熱帯雨林」に喩えられる。ところが、ウニが増殖してこのケルプの森が消えている。ウニを食べるラッコがこの島にはいないからであった。ラッコの減少は、クジラそして次にトドを食べていたシャチが、それらが減ってラッコを捕食することになったからである。
◯ジョン・ターボーによれば、ベネズエラのダムの湖に寸断されてできた島では、肉食獣から解放されたアカホエザルは、群れも作らず一緒になれば喧嘩で傷つけあい、赤ん坊は遊ばなくなり、子殺しが増えるなど、行動形態が変化したそうである。また、軍隊アリも寄生バエもアルマジロもいない島で、ハキリアリが大増殖し、木々は枯れトゲのある蔦ばかりがはびこる不毛の土地となってしまったのである。
◯ウォーラー&ルーニーは、ウィスコンシン北部の森全域で森の下層部に自生するはずの種の多くが消えているのを観察し、それがシカの仕業であることを報告している。ジャン・ルイマルタンによれば、カナダの太平洋州岸の沖のハイダ・グワイ群島の温帯雨林では下生えの植物が荒廃し、鳴鳥や昆虫の多くの種が消えてしまった。これは、本土にはいるオオカミ、クマ、ピューマなどの捕食者が存在しないためオグロジカが「勝手気ままな生活を満喫」しているからなのである。
◯デイヴィッド・ウィルコフは、アメリカの郊外では、アライグマとともに、アオカケス、カラス、リス、フクロネズミなどが増え、かつてはいたオオカミ、ピューマ、ワシがいなくなったため横暴な振る舞いをするようになっていることに驚いている。
◯マイケル・スーレは、チャパラル(低木の林)を調査すると、コヨーテが生息する林のほうが多くの種類の鳥を保っていることを発見し、それはコヨーテがいないと下位捕食者(中間捕食者)が勢力を伸ばし好き勝手をするようになるからだと理解した。
◯サハラ以南のアフリカでは、ライオンやヒョウがいなくなった広い地域で、ヒヒが人間の女・子どもを襲って食料を奪い、家を壊して侵入し、膨大な数の家畜や野生動物を殺している。
◯アイダホ、モンタナ、ワイオミング三州にまたがるイエローストーン国立公園では、ワピチ(アメリアカシカ)によって、次世代の森となるべき若木や新芽が絶え間なく食べられ、くるぶしの高さより上には伸びなくなっていることに、ロバート・ベシュトは唖然となった。スペリオル湖岸から25キロ離れたロイヤル島では、オオカミの存在がヘラジカの個体数を左右し、そのことが森林の生育に影響していることを、ロルフ・ピーターソン&ブライアン・マクラレンは観察した。イエローストーンでも、オオカミを導入してただちにそのことが立証されたのである。
◯現代の大型捕食動物の死の大半は、人間によってもたらされるというのが、肉食動物を専門とする生物学者の間では定説となっている。
◯たとえば、アイダホ最大のある牧羊場では、非営利団体「野生生物の保護者」からの一部の運営資金も得て、近隣オオカミを追い払うことはあっても殺すことなく8000頭のヒツジの飼育・管理に成功している。また、モンタナ州のロッキー山脈のある小さな町では、ハイイログマは「ゴムの弾丸で撃たれ、イヌに吠えられ、通り過ぎるのはいいが長居は許されない」と教えられて、人間との共生が図られている。
 自然生態系の問題は、老荘思想で「達観」していれば解決するというものではあるまい。巻末解説で、保全生態学者の高槻成紀氏が警告するように、日本においてもシカの食害が、高地を含めて関東・中部地方の広範囲に及んでいるのである。これはオオカミの絶滅が直接の原因ではないにしても、その惨状はこの著者の報告と重なるところである。
 次の文章に、たんなる悲嘆と絶望のレポートではないこの本の魅力の真髄があるかも知れない。
……人類は更新世の長く過酷な試練を乗り越えたことへの褒美をたくさん授かったが、大型肉食獣を決して侮ってはならないという教えもそのひとつだ。彼らは一撃で相手を殺すことができ、なおかつその生きる姿に荘厳さと優美さを備えている。地球を舞台とする大掛かりな実験が進むなか、この動物たちが二二世紀まで生き延びられるかどうかは、ひとえにわたしたちがこの教えを忘れずにいられるかどうかにかかっている。……(同書pp.369)
 http://sankei.jp.msn.com/world/news/140814/amr14081416040008-n1.htm
             (「ピューマと遭遇した女性」)

捕食者なき世界 (文春文庫)

捕食者なき世界 (文春文庫)