離婚してからも川原家に武志(伊藤健太郎)の養育費を送り続けている八郎(松下洸平)は、えらい。ヒロインの陶藝家川原喜美子を演じている戸田恵梨香のドラマは、はじめて観るが、演じる表情が魅力的、女優本体はとうぜんだろうが美形で、これからは応援したい。
……日本では母子家庭で養育費を受け取っている割合は24.3%に過ぎない現実がある(厚生労働省『平成28年度全国ひとり親世帯等調査』より)。……
日本酒の本質情報です。 pic.twitter.com/bICppdTgHN
— 青緑 (@aomldol) 2020年2月9日
2/9(日)はふだんは休肝日であるが、2/7(金)に呑んでいなかったので、昨年暮れにいただいた作(ざく)新酒・純米大吟醸1800mlの最後の一滴を、パルコ地下魚力で買ったつぶ貝の寿司を肴に呑んだ。
2/8(土)は、長男がKくんを連れて訪問。二人ともマスク装着で笑ってしまう。お土産は、FLO<フロ プレステージュ>のショートケーキと東京ディズニーランドのクッキー缶、そして何とマスクの束であった。「マスクはずーっと同じのを愛用している」と言うと、「それじゃあマスクの用を成さないよ」とのこと。ありがたく頂戴した。
孫の小学1年生Kくんと一緒に、NHK・Eテレのアニメ『スポンジ・ボブ』を爆笑しながら鑑賞した。なかなか利発な子だ。いまはビックリマンシール収集に凝っているらしい。また流行ってきたのか。昔製造元だった亡き知己のK社長からいただいた、(当時は入手は困難な)ビックリマン特別仕様下敷き数枚をプレゼントした。登場人物のキャラが違っているようで、あまり感動していなかったのは残念。
アメリカ人はひとの口の開け閉めを注視して、表情や表現を判断するのに対し、日本人は目のほうを重視するので、それぞれのマスク装着に対する抵抗感の違いが生まれるのではないかとの、マスクをめぐる〈日米比較文化論〉の仮説は興味深い。何れにせよ、使い古しはよくないので、観劇に東京に赴いた場合は、使用マスクは廃棄することにしたい。
これを見た瞬間に「おおお」と思う人は多いのでは。目で読み取る日本人と口元で読み取る欧米人。 pic.twitter.com/TNs5RXaj2V
— Munechika Nishida (@mnishi41) 2018年7月29日
人形劇を見ても、日本のそれは目に、アメリカのそれは口で語らせている。チェコで人形劇を作っている人に聞いたら、アメリカに人形劇を輸出するとき、必ずセリフと口の動きをシンクロさせろと言われるという。 https://t.co/pZeiYvKRaH pic.twitter.com/reJHJ1EsVK
— カラサワ (@cxp02120) 2020年2月9日
✻「生る」→「なる」ご本人訂正。
1週間ぶりに外へ買い物に出て、パルコのACADEMIAくまざわ書店に寄り、文藝雑誌『群像』3月号を購入した。文藝雑誌など買うのはじつにひさしぶりである。絓秀実氏の論考「小説家・大江健三郎」を読むためのみである。他の作品・評論など読むつもりはまったくない。いま読んでいる本ほかを読み終えて、その意欲が生まれたとき、絓秀実氏の大江論を心して読む予定である。
大江健三郎という作家と作品を繋げられるのは今のところ絓秀実だけなんです。柄谷行人や蓮實重彦ですらやっていない。その事実を鑑みれば、日本に大江健三郎を批評できる文芸評論家などほぼいないと言っていい。
— ミスター (@hahaha8201) 2020年2月9日
ジョン・スタージェス監督、バート・ランカスター(保安官ワイアット・アープ役)共演『OK牧場の決斗』のドク・ホリデイ役も魅力的であったが、個人的には、ロバート・アルドリッチ監督、ロック・ハドソン(保安官ダナ・ストリブリング役)共演『ガンファイター(The Last Sunset)』のブレンダー・オマリー役のカーク・ダグラスがいちばん印象的であった。東映任侠映画の『唐獅子牡丹』とはまた違った、男の友情の潔さと美しさを知った映画体験であった。大往生、ご冥福を祈りたい。
江藤淳の認識はある種の歪みを持っていて、それゆえにかれは「異常な判断」ばかりするわけだが、だからと言って江藤を批判する気に最近なれない。剥き出しの生存戦略が知を占有する時代において江藤淳のような知的な知性を読むことはとても意義ある行為ではないか。
— ミスター (@hahaha8201) 2020年1月28日
他者とリアリティという名の妥協線を対話しながら引いていくことはとてもしんどいことだが、それが政治というものでしょう。そういう努力を怠ったところに批評はない。仲間内のジャーゴンを煮詰めて作られていくのは「ごつこ」でしかなく、面倒だが、繊細な批評こそ求められるんじゃないのという気が
— ミスター (@hahaha8201) 2020年2月5日
文藝批評家(文藝評論家)江藤淳について論及する文章に少なからず出会う昨今である。1999年7月自ら命を絶った江藤淳について、桶谷秀昭氏が『日本経済新聞』同年7/24号紙上に追悼文を寄せていて、これは(個人的には)何度も読み返したいみごとな追悼文である。
作家・詩人のように作品を残すためではなく、「生きるために書く」文学の独身者(小林秀雄)であった 批評家江藤淳は、「愛妻に死なれ、生活上の独身者たることを強いられて、生きるために書くことを断念したのだ」と訃報を受けた衝撃の後、桶谷氏は「思うようになった」。むろん「だからといって、心はすこしも晴れないのである」。
生活を藝術化する浪曼主義的衝動というものがあり、藝術を生活化するレアリズムの態度がある。
江藤氏はどちらかといえば、後者の傾向をもつ文学者であったと思う。
批評文は、“クリティーク”という言葉が含意するように、“危機”的状況に自分を立たせることを強いられる。強いられつつも、そこをきりぬけて生きなければならない。
江藤淳氏はそういう批評家の役割によく耐えて生きてきた人である。彼の批評文には、繊細な感性と鋭敏な知性のバランスがよくとれていて、過度の自虐におちいることがなかった。矛盾、ジレンマの極限相にあえて自分を追いこまない平衡感覚がよくはたらいていた。
しかし、江藤氏のながい文業をふりかえって気がつくのは、年々にその文章にかなしみの色が濃くなってきたことである。
彼は生きるために書くのであるが、では、何のために生きるのかと問うてみれば、やがて死ぬためである。そんな声が文章の行間からきこえてきた。
ルー・アンドレアス・ザロメ(Lou Andreas-Salomé)が亡くなったのが、1937年2/5。つまり今日が命日にあたる。リリアーナ・カヴァーニ監督の『ルー・サロメ 善悪の彼岸』は、ルー・ザロメ(サロメ)を中心にして、ニーチェとパウル・レーの男二人が関わる物語。ルー・ザロメ(サロメ)を演じるドミニク・サンダが魅力的な映画であった。史実では、詩人のリルケもルー・ザロメに人生を掻き回された男であるが、この映画には登場しない。ニーチェは俗物的に描かれていて、惜しみなく裸体を晒すドミニク・サンダのルー・ザロメのみがひたすら妖しく輝いている、という映画である。
リンデ・ザルバー『ルー・アンドレアス=ザロメ 自分を駆け抜けていった女』(向井みなえ訳、アルク出版企画)のブックレビューで、鹿島茂氏がザロメについての真実を書いている。
そうだったのか! ルー・ザロメにとって人生の第一義は「考えること」であり、その生涯を彩る愛や性は二義的なものにすぎなかったのである。ニーチェに接近したのも「彼とともに考えたかった」からであり、ニーチェが彼女の魅力にひかれて結婚を申し込んだのは想定外のトラブルに過ぎず、ニーチェ&パウル・レーとの性関係なしの「三位一体」生活こそが本気も本気、大まじめな希望だったのである。
2/2(日)放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、明智十兵衛光秀(長谷川博己)と斎藤高政=義龍(伊藤英明)が馬に乗って林に赴き、鉄砲の試し撃ちをする。そして義龍は、将来の美濃をどう統治すべきか、戦さにばかり卓越した才を発揮する父道三(本木雅弘)を批判し、来たるべき時に光秀に協力してくれと秘かに頼む場面、今後の展開を予兆し暗示的であった。じつは最新の学術的研究成果を踏まえていること知り、感心させられた。戦国物語といえば、斎藤道三ばかり目立っていたが、このドラマを契機に義龍がすぐれた武将であったことが注目されるだろう。
びっくりしすぎて上手く言葉にならない。義龍と光秀が馬に乗って、会話した内容、というか義龍の語り、完全に私の研究だった!!!!!!!!!!道三と義龍の文書発給の仕方の差異だったり、義龍がその後在地の用水相論に積極的に介入していったこと。これこそが私のやってきたことなんです😭😭😭#麒麟がくる
— きさみわかしい (@merontomikan) 2020年2月2日
今までの、それこそ「国盗り物語」の斎藤義龍といえば、道三が先見の明で信長に期待したことを強調するため、ぱっとしない陰キャ的な描かれ方だったと思う。かませ犬みたいな。今日の、あのものの数十秒だけど、伊藤英明さんの演技に最新の義龍像が、誰もまだ見たことなかった義龍像があった。
— きさみわかしい (@merontomikan) 2020年2月2日
『麒麟がくる』には、歴史上実在した人物ではない、物語のオリジナルキャラが登場している。医師の望月東庵(堺正章)、その助手の駒(門脇麦)、百姓菊丸(岡村隆史)、旅藝人一座の女座長伊呂波大夫 (尾野真千子)など。だいたい主人公の明智光秀じたいその出自にして判然としていない世を扱っているのであるから、実在した人物および事件に関して史料上の根拠を無視して描くのでない限り、ドラマ展開上の〈歴史離れ〉はあって構わないだろう。トルコの大河ドラマ『オスマン帝国外伝』でも、後宮女官長のニギャールという女性を登場させて、物語の展開に大きく関わらせて面白くしている。(最も人生の悲哀を感じさせた登場人物であった。)ただ、学術的研究でのみ明らかになる史実と、面白いということが至上命令の物語は違うのだ、という認識を忘れないことだ。
2回目の長谷川博己様✨今度は手を振ってくれた〜✨ #成田山新勝寺 #長谷川博己 #麒麟がくる pic.twitter.com/zpm5FgWBA8
— lovin (@lovin_0906) 2020年2月3日
NHK大河ドラマの長谷川博己といえば、2013年綾瀬はるか主演の『八重の桜』を思い起こす。会津藩の川崎尚之助を演じたのが、長谷川博己。維新の戦乱で、八重(綾瀬はるか)と離れ離れの人生を生きることになってしまった尚之助の、限りないやさしさのオブラートで包んだ絶望と悲哀を、みごとに演じていた。
さてこの『八重の桜』にはもう一人の長谷川が出演している。八重の兄山本覚馬(西島秀俊)に嫁いで、やはり戦乱により別れて会津の山里に孤独に生きる運命となった樋口うらを、長谷川京子が演じている。視聴者も涙するほかはない晩年の姿であった。
その長谷川京子が、世田谷パブリックシアターで、シラーの『メアリ・スチュアート』のメアリ・スチュアートを演じる。男長谷川の明智光秀もいいが、女長谷川のメアリ・スチュアートも期待するところ大である。