批評家江藤淳再評価

 

 文藝批評家(文藝評論家)江藤淳について論及する文章に少なからず出会う昨今である。1999年7月自ら命を絶った江藤淳について、桶谷秀昭氏が『日本経済新聞』同年7/24号紙上に追悼文を寄せていて、これは(個人的には)何度も読み返したいみごとな追悼文である。
 作家・詩人のように作品を残すためではなく、「生きるために書く」文学の独身者(小林秀雄)であった 批評家江藤淳は、「愛妻に死なれ、生活上の独身者たることを強いられて、生きるために書くことを断念したのだ」と訃報を受けた衝撃の後、桶谷氏は「思うようになった」。むろん「だからといって、心はすこしも晴れないのである」。


 生活を藝術化する浪曼主義的衝動というものがあり、藝術を生活化するレアリズムの態度がある。
 江藤氏はどちらかといえば、後者の傾向をもつ文学者であったと思う。
 批評文は、“クリティーク”という言葉が含意するように、“危機”的状況に自分を立たせることを強いられる。強いられつつも、そこをきりぬけて生きなければならない。
 江藤淳氏はそういう批評家の役割によく耐えて生きてきた人である。彼の批評文には、繊細な感性と鋭敏な知性のバランスがよくとれていて、過度の自虐におちいることがなかった。矛盾、ジレンマの極限相にあえて自分を追いこまない平衡感覚がよくはたらいていた。
 しかし、江藤氏のながい文業をふりかえって気がつくのは、年々にその文章にかなしみの色が濃くなってきたことである。
 彼は生きるために書くのであるが、では、何のために生きるのかと問うてみれば、やがて死ぬためである。そんな声が文章の行間からきこえてきた。

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