放射能デマをまき散らした福島ヘイト雑誌『DAYS JAPAN』(休刊)の編集長だった広河隆一は、そもそも《人権派》などとは呼べない。 #Metoo
— 井上リサ (@JPN_LISA) 2018年12月25日
世界的人権派ジャーナリストに性暴力疑惑 7人の女性が証言 #広河隆一 #ジャーナリスト #スクープ速報 https://t.co/yrFgFA4eoq
「複数の女性に性暴力やパワハラをした」けど謝罪していない「写真家」の復権を後押ししたのが、東京新聞。まったくどうかと思う。<
— 小菅 信子 a.k.a. Upper Moon Three (@nobuko_kosuge) 2022年6月29日
写真展の開催は広河隆一の「自由」なので誰にも止める事はできません。その一方で、女性はこの人物に近付かない方がよい事や、学生はボランティアに参加しない方がよい事などの注意喚起までならできます。 https://t.co/Grg1GBzACr
— 井上リサ (@JPN_LISA) 2022年6月29日
件の〈人権派〉写真家は、他人の人間性を「単に手段として」扱っている典型例ということになるが、さてでは人間性を「目的として」扱うとは、どういうことか、難しい問題である。
simmel20.hatenablog.com▼中島義道電気通信大学教授の『悪について』(岩波新書)は、悪一般について考察した書ではなく、カントの倫理学の紹介でこれまで素通りしてきた問題を掘り下げて取り上げている。あいまいな理解であったところに光があてられてありがたい。
「きみ自身の人格における、またほかのすべての人格における人間性を、常に同時に目的として使い、けっして単に手段として使わないようにせよ」という定言命法の第2式は、カントの「人間は創造の究極目的である」との、広い意味でのキリスト教的人間観を前提としなければ「到底理解できないもの」だということに、鈍感であってはならないだろう。さらに、この場合の「単に手段として使わない」とは、非適法的行為にむけて使わないという意味であることにも注意したい。