アガパンサス=アガペー(愛)の花

 アンダース・ニーグレン(Anders Nygren)の『アガペーとエロース』全3冊(岸千年・大内弘助共訳 新教出版社)によれば、アガペーとその「敵手である」エロース(プラトン的愛)は、「二つの観念は起源も性質も全く異っているが、しかもそれらは、共に並行した走場を走るに足るものである」としている。

……われわれは当然、アガペーの観念はキリスト教の一つの根本観念であるばかりでなく、すぐれてその根本観念である、と言う権利を有する。アガペーの観念はキリスト教の新しい創造物である。それはキリスト教全体にそれのしるしを附けている。それがなければ、キリスト教的な事柄は、何も、キリスト教的とはならないであろう。(Ⅰのp.17)

『事典・哲学の木』(講談社)の「愛」の項目は、「エロス」「アガペー」のサブ項目を設け解説(千葉恵)している。「アガペー」について。
▼聖書において、愛は命じられうるものである。(略)愛を命じうることの背後には、神の国の現実がある。神の国は「神は愛である」という根源的な事態が充満している世界である。愛の本質は神人イエスにおいて歴史のなかで啓示されたとされる。「主は私たちのために生命を捨てて下さった。それによって、私たちは愛ということを知った」。イエスの生涯において伝えられた神の国の現実とは、神と人との間に父と子の関係があり、汝において我があり、我において汝がある、我と汝の人格関係のことと言えよう。父なる神と子なるイエスという我と汝が最も基本的な関係であり、それは神と人との間に、また人々の間に、父と子、夫と妻、友と友、師と弟子等の我と汝の交わりが、出来事となることの範型である。