「悪」をめぐってーカントの場合

 
 中島義道電気通信大学教授の『悪について』(岩波新書)は、悪一般について考察した書ではなく、カントの倫理学の紹介でこれまで素通りしてきた問題を掘り下げて取り上げている。あいまいな理解であったところに光があてられてありがたい。
「きみ自身の人格における、またほかのすべての人格における人間性を、常に同時に目的として使い、けっして単に手段として使わないようにせよ」という定言命法の第2式は、カントの「人間は創造の究極目的である」との、広い意味でのキリスト教的人間観を前提としなければ「到底理解できないもの」だということに、鈍感であってはならないだろう。さらに、この場合の「単に手段として使わない」とは、非適法的行為にむけて使わないという意味であることにも注意したい。
 カントの定言命法とは、「いかなる条件にも限定されない命法なのではなくて、実は自己愛という条件に限定されない命法にすぎない」のであり、いっぽう仮言命法とは、「自己愛の動機に条件づけられた命法」ということになる。なるほどすっきりする解説である。そしてこの「自己愛=Selbstliebe」は、「自己偏愛=philautria」と「うぬぼれ=arrogantia」の二つに分けられる。前者の「自己偏愛」は、誰もが幼児のころからもつ自己に対する自然な愛着のことで、実践理性によって道徳法則との一致に制限可能であるが、後者の「うぬぼれ」は表面的、対外的には善人としての振る舞いに隠されてしまうので、「たたきのめす」しかないものである。(なお後半で、定言命法とは、自己愛および、外的完全性や神の意志に盲目的に従う「意志の他律」の条件に限定されない命法と修正している。)
 自殺についてのカントの論証は不十分であると、著者は考える。自殺は、自己愛に基づいているからすべきではないとするが、自己愛から自殺をしない場合は、適法的行為であっても、動機が自己愛に基づくから道徳的に善くないという論証も必要になってくるのに、そういう展開にはなっていない。そもそも自殺の動機が自己愛に限定できるか疑わしい。「ふっと死にたくなって」自殺することもあるだろうから。
『カントは、適法的行為の普遍妥当性を確信していたのではない。疑っていたのではない。彼はおよそ適法的行為の普遍妥当性に対して、興味を示さないのだ。彼が確信していたのは、「道徳的に善い行為」の普遍妥当性だけである。』
 有名な、刺客に追われた友人の逃げ込んだ居場所を「嘘」をついて教えないことは、自己愛の動機による非適法的行為であるとするカント倫理学の厳格主義も、「根本悪」としての「たたきのめし」難い人間の自己愛をいっぽうに見据えて、あくまでも「道徳的に善い行為」の普遍妥当性を堅持するためであろう。(批判に晒されて、友人が助からないとは限らないなどと弁解しているところは、カントも可愛いものだ。)
『こういう事態は、日常的にもいたるところに転がっている。あなたが、非適法的行為(嘘)を実行して「しかたがなかったんだ」と呟いてはならないように、たとえあなたが道徳的に善い行為を実現したとしても、その結果他人に禍を及ぼした場合、やはり「しかたがなかったんだ」と呟いてはならないように思う。自分を守ってはならないように思う。
 では、あなたはどうすればよかったのか。正解はない。あなたが道徳的人間なら、あなたはどちらを選ぼうと「しかたがなかった」と呟いてそれから眼を逸らせてならないことだけは確かである。あなたは、どこまでも「自分はどうすればよかったのか?」と問いつづけなければならない。たとえその答えが永遠に与えられなくとも。』
 素人には窺い知れない深い蓄積を土台にカントをいじくり回して、出てくる結論は、案外に常識的なことではある。あるいは、パリサイ派と対決したイエスと重ねても間違ってはいないだろう。むろんどこかですでに聞かされたことだからといってたやすく実行できる生き方ではなく、重く受けとめなければならないのはいうまでもない。

悪について (岩波新書)

悪について (岩波新書)

カントの自我論

カントの自我論

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町に咲く、上オリエンタル・ハイブリッド百合(ミゼット・カサブランカほか)、下サルビアグアラニチカ。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆