畏友大岡俊明氏の死を悼む

 中学・高校の同窓会誌が届いた。会員訃報欄に、(最近たまたま『橋口守人詩集』を読もうかと思って探していたところなので)詩人・仏文学者の橋口守人氏の名前が出ていることに驚いたが、大岡俊明氏の名前が出ていたので絶句。
 中学1年のときに同じ学級となったが、ちょうど後ろの席にいた大岡君が大きなストックブックを見せてくれ、見たこともないヨーロッパの美しい切手がグラフィン紙のポケットに整然と収まっていた。ピンセットでドイツの1枚の切手を取り出して眺めさせてくれたりした。違う世界の住人のように思えたものだった。
 文藝部に所属し、高校になってから何回か「入部しないか」と誘われたが、こちらは学校の外部に同人誌を作っていたので、断っていた。
 生徒会新聞に掌篇小説を発表したとき、その新聞の編集・発行の責任者が大岡君で、こちらはいまは亡き銅版画家深沢幸雄門下の美大生K子さんに、二人展を観た関係で挿画を依頼し、原画を印刷に送っていたにもかかわらず、その挿画が掲載されていなかった。印刷担当の後輩が平謝りして来て、ミスとして納得していたが、卒業後何十年も経ってどうやら大岡君が勝手にありきたりのイラストと取り替えてしまったらしい。この件について大岡君の歯切れが悪く、申し訳なさそうな、何か隠している印象だったので気が付いたのであった。その後憧れのK子さんに、あまりのすまなさで会えなくなったのはいうまでもない。
 大岡君は東京大学文学部東洋史学を卒業してから、駿台予備校の世界史講師となり、20代にして岩波の『思想』に論稿を載せるなど、俊秀ぶりは変わらなかった。カリスマ講師として(東大)受験世界史の世界で君臨していたのであった。ふつうの人間なら引退後も満足の人生であったかもしれない。しかし大岡俊明は、やはり文学の徒であった。文藝部の先輩・後輩らと同人誌活動を始め、現代詩の作品を発表し続けた。山之口貘を敬愛する詩人であったのだ。受験生にとっては〈神〉に違いないカリスマ講師、何億稼ごうがそんなものは何者でもない、そう自己相対化・批評せずにはいられない、そこに文学(の営為)に参加する者の資格があるのだ。
 お互いに書いたものを送り合い、感想・批評を述べ合う、そういう関係が長く続いていた。そこに突然の訃報であった。
 2012年『暁光以後』9号掲載の「現代詩四題」の「冗談」最後の第4聯、

花と虫を見ているこのごろ
鳥と風を見ているこのごろ
人生の落とし所が
花鳥風月であったなどと
おっかしくって言えたものじゃないのだよ。

 そして、「感謝・跋文」と題された詩、
盛大でなくともよい、ダルにならぬよう
儀式ばらずに普段の調子で でも
若干の刺激、わずかの苦と楽
我が通夜、葬式、告別の時に
使ってほしい貯金積み立て
書きためて、参列者御一同各位に
心、なかんずく愛情をこめての
冗談、軽口、ほめことば、些少ながら
香典返しとは別に一人頭なにがし
読み代をつける
必ずやその場で読まれたし
声を出し、しばらくの談笑の種
(故人のことはそっちのけでOK)
ご足労かけることへのお礼、外れ
のない福引きも計画・準備中
浅からぬ因縁、是非とも来られんことを
何が何でも
私より長生きされて、その日をおたのしみに。
 

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  (2010年10月の高校同窓会会場にて、大岡俊明氏と)