花田清輝の「スカラベ・サクレ」

 

 

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 さっそく『大衆のエネルギー』(講談社 1957年初版)収録の「スカラベサクレ」を読む。昔読んでいるはずなのだ。早くも早期認知症に罹患しているのか、博覧強記とおちょくりのいかにも花田清輝の文章であるが、議論の展開に記憶が蘇ることがない。とにかく初めて出会った論旨という感じ。
「山のいただきに押しあげるや否や、地ひびきをたてて転がり落ちてくる、大きな石塊」を、また「はてのない労働に取り掛かろうと山をおりてくる」、カミュがその「意識の時間」に関心を抱いたシジフォスと、ひたすら糞の玉を転がし勾配を転げ落ちながらも登っていく「スカラベサクレ(神聖な甲虫)」と呼ばれる糞虫とを同類としている。しかしシジフォスにはあった「意識の時間」が糞虫にはない、だから同じひたすら繰り返す労働でも、シジフォスの場合は悲劇的、糞虫の場合は喜劇的であるとしている。😀😀
 さて一方、シェイクスピア作品における道化についての三つの型を採り上げ、その創作活動で独特のニヒリズムを展開させている戯作者精神の作家の系列、永井荷風石川淳坂口安吾の作品世界と照応させている。ビターフール(辛辣な道化)・スライフール(悪賢い道化)・ドライフール(愚鈍な道化)の三つである。中橋一夫の「道化の宿命」によれば、
1:愚鈍な道化=つねに人びとの笑いに身をさらしているほんものの阿呆。
2:悪賢い道化=一見、馬鹿のようにみえながら、じつは腹のなかで人びとをせせら笑っている偽阿呆。
3:辛辣な道化=ふれるものことごとくを笑殺する、いささか凄みを帯びた道化。
「ともすれば反俗の旗幟を高く掲げたがる」荷風が3で、「じつは反俗以外のなにものでもない」淳が2、「通俗一本槍の」安吾が1の道化に当たり、「道化の進化」が1→2→3へ移行することが「道化の進化」であるとの中橋説に対して、案外逆のコースを辿ってきたのではないかと花田は述べる。戯作者の道化性とは韜晦であり、じつは、3の荷風が「愚鈍」、2の淳が「悪賢く」、1の安吾が「最も辛辣」だということは「自明の事実ではあるまいか」としている。
 花田清輝が、「みずからの矮小な価値判断に恋恋として」いる永井荷風、「シジフォスであるかとおもえば、スカラベサクレであり、スカラベサクレであるかとおもえば、シジフォスであるような人物」つまり「悪賢い道化」である石川淳よりも、時代状況の要求する抵抗の形として、坂口安吾をより評価している印象である。むろん個々の作品の優劣を論じている場面ではない。

 そこへいくと、坂口安吾は、たぶん、石川淳よりも、さらにいっそう反動的な、——さらにいっそう生きがたい時代を生きなければならなかったためであろう。荷風と同様——いや、荷風よりも、はるかに決然と、みずからの価値判断を放擲し、積極的に無価値の世界を生きることをもって、おのれの念願としているようにみえる。したがって、かれは、荷風とは反対に、自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き上げたいとおもっているかもしれないのだ。すくなくともかれは、みたところ、シジフォスのようにではなく、スカラベサクレのように、通人のようにではなく、幇間のように、辛辣な道化や悪賢い道化のようにではなく、愚鈍な道化のように、嬉々として、無価値の世界の中で、たわむれているかのようだ。(p.155) 

 

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