池田信夫氏の本日のブログに、ドイツの社会学者ウルリヒ・ベックの『危険社会』(法政大学出版局・叢書ウニベルシタス)に触れて持論を展開した記述があった。かつてこの大著について未読のままHPに記載したことを思い出した。池田氏は、「Risiko=risk」の訳語を「危険」としたことを誤りとしている。なるほど。
……反原発文化人がよく使う言葉に、ウルリヒ・ベックのリスク社会がある。しかし"Risikogesellschaft"を『危険社会』と訳している訳本は、この概念を根本的に誤解している。リスクとは確率的な期待値であって(確率1の)危険とは違うのだ。青酸カリを飲むことは危険だが、リスクとは言わない。……(池田信夫ブログ10/3)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51873829.html#more(『「リスク社会」と再帰的近代化』)
リスクは社会全体の期待値で、あなた個人が回避できる(と思っている)かどうかは無関係。誰もが「自分は交通事故にあわない」と思っているが、年に5000人死ぬ。 RT @Freetalkaccount:煙草は、摂取するかを自分で選択出来るからではないでしょうか。
— 池田信夫 (@ikedanob) October 3, 2013
英語の「risk」では、動詞もあり、英和辞典『O-LEX』(旺文社)によれば、1: 危険にさらす、〜を賭ける、とともに、2: a)(+目的語)〜の危険を冒す、〜を思い切ってやる、b)(+doing)〜することを覚悟の上で行う、あえて〜してみるの意味があるとなっている。
HP記載の記事を再録しておきたい。
◆ウルリヒ・ベックミュンヘン大学教授著、東廉・伊藤美登里訳『危険社会―新しい近代への道』(法政大学出版会刊・叢書ウニベルシタス)は、近代文明の展開そのものがもたらしつつある危険=Risiko(もしくはGefahr)について分析考察している。訳書で460頁の大冊で、極上のたる酒を一気飲みなどむろん不可能で、第1部をちびりちびり味わっているところである。
……危険はわれわれの目には全く認められない。とはいえ、このような規範的な見方によって初めて、危険の危険たるゆえんが明らかになるのである。危険は、計算や実験の結果によって明らかになるのではない。いかに技術的な体裁をとっても、問題は、遅かれ早かれ、それを受け入れるか否かということになる。そして、どのように生きたいのか、という古くて新しいテーマが浮上してくる。つまりわれわれが守らなくてはならない人間のうちの人間的なるものとは何か、自然のうちの自然なるものとは何なのかという問題といってもよい。「破局的事件」の可能性をいろいろ語るということは、この種の近代化の進展を望まないという規範的な判断を、極端な形で述べることに他ならない。……
危険が及ぶ可能性および、危険をある程度回避できる条件や、情報収集能力を含めた能力について、富の分配をめぐる階級格差を新しいレベルで強化・固定することを指摘しているところは、鋭く、二極化が進行中とされる現代日本についてもあてはまるのだろう。しかし、著者によれば、危険の分配の論理の核心はこのことではなく、水や空気の汚染などの危険は、もはや個人の努力や工夫で対処できる可能性は少ないのであり、階層を隔てる障壁を越えて危険が浸透しているということなのである。
……危険はそれが拡大する過程で社会的なブーメラン効果を発生させる。つまり、危険を前にして、富める者も力を持つ者も安全ではない。前に述べた「潜在的副作用」は、それ自体が生じた所にも反作用を及ぼす。近代化の舞台の登場人物―危険を引き起こし、その危険から利益を得ている人物たちーでさえ、極めて具体的な形で危険の渦に激しく巻き込まれてしまう。この現象はさまざまな形をとって起こり得る。……(2005年4/24)
- 作者: ウルリヒベック,Ulrich Beck,東廉,伊藤美登里
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
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