演歌も聴いてみる



 秋吉恵美のコンサートを聴いたのは、新宿朝日生命ホールでの第13回(2003年12月)が最後で、この歌手を知るきっかけを与えてくれた作家の鴻みのるさん(芥川賞候補作家)の姿もこのとき以来見ることなく、黄泉の人となってしまった。
 神田明神会館での鴻みのる出版祝賀会で、こちらが司会進行を務めたとき、秋吉恵美さんがゲストとして歌ってくれたのである。それ以来、王子、表参道などの会場でコンサートを聴いている。
 本来は正統演歌歌手として出発したようであるが、この3月に亡くなった石坂まさを作詞・作曲の『心歌』で世間的に知られるようになったのである。こちらももっぱら『心歌』に注目して聴いていた。
 パリ国立音楽院の対位法科・和声科・作曲科(オリビエ・メシアン氏に師事)をそれぞれ優秀な成績で修了し、日本の演歌についても一家言をもった現在パリ在住の現代音楽作曲家吉田進氏は、秋吉恵美を高く評価している。表参道のライブハウスでのコンサートでは、わざわざパリからゲストとして参加していたことを記憶している。
 http://www.creaters-index.com/composer/syoshida/5555/(「吉田進HP」)

 その著『パリからの演歌熱愛書簡』(TBSブリタニカ:1995年11月)で、吉田氏は、「ボキャブラリーや旋律や歌い方の上で、いわゆる演歌調というものもたしかに存在する」とし、この狭義の演歌に対し、「歌を演じる」歌を広義の演歌と呼んでいる。そして演歌の本質は、この「歌を演じる」ところにこそあるのだと論じている。だから「一見演歌風でありながら、演じる要素の入っていないものは、歌謡曲」であって演歌ではないとする。歌謡曲が「なんらかの音楽的要素が、耳に感覚的快感を与えることを生命とした、流行歌(はやりうた)」であるのに対して、演歌は、「歌謡曲のもたらす官能的快感を、多かれ少なかれ保持しつつ、声の出し方が歌詞の意味内容に従い変化することによって、演劇的世界を現出させるもの」であるという。例えば春日八郎の歌でいえば、「別れの一本杉」は演歌であるが、リズミカルな「お富さん」は歌謡曲である。
 歌手論に入り、「悲しい酒」の美空ひばりに比肩できる歌い手は、「世界広しといえども、僕の知っている限り、ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウしかいない」とまで絶賛している。
……美空ひばりの、この《悲しい酒》を聴いて、心を動かされない人がいるとしたら、その人は、もう全く音楽を必要としない人である。……(同書.136)
 新たに現われた歌手について触れ、坂本冬美は「本物であるばかりでなく、大物である」と評し、
……《男の情話》で格別に美しい裏声は、三番の「強いばかりが 男じゃないと」の「男」の「と」で、途中から引っくり返るところ。感受性が鋭敏な時に聴けば、一瞬永遠が聞えるだろう。……(同書p.88) 
 さて最後の章に、「石坂まさをと秋吉恵美の《心歌十二章》」がある。秋吉恵美のCDを聴いて、「こういう演歌は、ついぞ聴いたことがない」と感想を述べる。「想像を絶する歌いぶりである」とし、
……演ぜずして演ずる! そう、これが僕が石坂と秋吉の《心歌十二章》を聴いて、最も衝撃を受けた点だ。本書でも繰り返し書いてきたように、演歌とは「歌を演じる」ことなのであるが、二人の演歌は、当たり前の意味のそれを突き抜けてしまっている。……(同書p.268)
……結局は、人間がもはや悲しい、という言葉すら発せなくなった時に、初めて心から湧き出た詞であり、メロディーなのである。
 秋吉の特異な歌唱は、個性などというものではない。ここには、華やかな舞台でスポットライトを浴びる、スター的な派手さが見られない。
 これは人生の辛酸をなめ尽くした人間の、心情の吐露である。
 演歌の歴史は、この一枚のCDによって、大きく書き換えられた。……(同書p.272)
 たまたま眼にしたどこかのレビューでは、取り上げられているとする歌手のなかからみごとに秋吉恵美が抜け落ちていた。obscureな秋吉恵美を同じ土俵で論じているところに、この書の大いなる価値があるのである。


⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の、上ヤマアジサイ(乙女の舞)、下西洋アジサイ(花手まり)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆