永井均日本大学教授の『倫理とは何か』(産業図書)は、速読できるような書物ではない。西洋倫理思想史を辿りながら、道徳成立の哲学的根拠を執拗に追求している。M教授の講義と、それをめぐってのなかなか手強い聴講者(男女の学生と、アインジヒトという名の猫)らの討議という展開形式をとっている。
プラトンについては、猫氏は次のように考えるべきだとしている。
『自己利益の追求は、合理性よりもさらに広い範囲をカバーするより強い根本的な前提だと言える。これに対して、「私はなぜ他人にとって善いこと(=他人の幸福あるいは利益)を実現しようとすべきで、他人にとって悪いこと(=他人の不幸あるいは損害)を避けようとすべきなのか」という問いは、解答を要求する問いだ。プラトンが哲学的に破格に偉大なのは、これを解答を要求する問いだとみなしたことにあるんだ。これはたいへんな哲学的洞察というべきだ。ただそのことだけで、彼は比較を絶して偉大な哲学者なんだ。どう解答したかなんてことは、哲学にとっては二次的な重要性しか持たない。』
アリストテレスについての、猫氏の見解は面白い。
『倫理学は若い人にはふさわしくないというのは、逆もまた真だな。人生経験の豊富で世知にたけた大人には、倫理学なんか絶対にできない、ともいえる。若い人というのがプラトン的な理想主義の象徴で、大人というのがアリストテレス的な現実主義の象徴なのだとすれば、その二つは、じつは、そんなに違わないんだよ。プラトンとアリストテレスが、じつはそんなに違わないようにね。これも象徴的な言い方になるけれど、もし十五歳から二十九歳までを若い人と呼んで、三十歳から六十五歳までを大人と呼ぶなら、哲学ができるのは、それ以前かそれ以後の、しかしそれに近いほんの一瞬だけなんだ。』
ホッブスの社会契約説については、約束を守られなければならないという前提となる「約束」=道徳が成立してなければ、論が説得力をもたないことを、「囚人のジレンマ」の話を引用して批判している。なるほどと思わされた。
『社会契約の場合には、つまり、こういうことになる。だれもがある約束を守る社会とだれもがそれを守らない社会を対比すると、だれにとっても(自分自身にとって)前者のほうが有利だ。しかし、どちらにしても、自分がその約束を守る場合と守らない場合を対比すると、だれにとっても自分はそれを守らないほうが(自分自身にとって)有利だ。さて、こういう状況で前者の社会は実現可能か、という問題だ。』
とことん妥協しない、根源的な思考があって、スリリングであるが、カネの心配と健康への不安のない環境で、〈考える体力〉が整っていないとついていけない。
倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦 (哲学教科書シリーズ)
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