マルクス疎外論の再評価(その3)

 

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 D.ヒュームの『宗教の自然史』(叢書・ウニベルシタス 法政大学出版会)と『自然宗教をめぐる対話』(岩波文庫)の2冊ほかと併読しているので、田上孝一氏の『マルクス哲学入門』(社会思想社)もようやく完読。その間Twitterで、直接著者への判読し難い箇所の確認などできて、現代の読書環境の恩恵に浴している。
 疎外論こそマルクス哲学の核心で、『資本論』においてもそれは基底にあり、決して超克された考え方ではないというのが、本書の画期的な論旨であり、文献に基づく最新のマルクス研究の成果である。
 資本主義の下での人間=人格(Person)はSache化する(Versachlichung)のであり、これに「物象化」という訳語をあててきたのは適切ではないこと、資本主義を止揚した後に成立する未来のあるべき社会主義社会とは、ゲノッセンシャフトリヒ(genossenscaftlich)な社会であるということ、盟友エンゲルスのいわゆる科学的社会主義とは疑似科学であり、それがレーニンスターリンに継承され定着したマルクスレーニン主義マルクス本来の思想から逸脱していること、マルクスの思想は人間と自然とのあるべき循環を構想したのであって、生産力至上主義ではないのであり、したがって現代の環境問題についても十分射程距離が届いていること、以上4点がさらに追加されて哲学のほぼ全貌が明らかとなるのである。

◯従ってVersachlichungは物象化ではない。Sacheの反対概念は「人格」だからであるTwitterにて田上氏にわかりやすくしていただいた)。それは商品として値段が付けて売り買いされるような事物であり、物件である。だからVersachlichungは正しくは物件化と訳されるべきものである。人格的な人間が物件となり、商品化されてその労働力が売買される。そのような商品化を批判する概念がVersahlichungなのである。その前提が人間とは人格であり、物のように扱われてはならないというマルクスの人間観なのである。(p.86)  

◯…マルクスが敢えてゲノッセンシャフトという言葉を使ったのは、新社会のアソシエーション的性格を一層強調するためだったと考えられる。というのはGenossenscaftの語幹であるGenosseには「同志」や「仲間」という意味があり、更には動詞のgenießenには「楽しむ」や「享受する」という意味があるからである。一緒に楽しめるような人間関係が仲間である。新社会がGenossenscaftであるということは、それが際立って友愛的なアソシエーションであるということである。だからこのGenossenscaftを一律に協同組合と訳している現行の翻訳は、不十分なのである。(p.92)
◯そしてこの老エンゲルスによる図式化、道徳的批判と科学的分析を対立させ、必然的な歴史法則の強調により対象の規範的吟味の必要を認めないという極端に実証主義的な立場としてマルクス学説を特徴付けるのは、マルクスの名を冠しながらマルクスその人には由来しない一種の知的創作と言えるだろう。こうしたエンゲルスによるマルクス学説の神話化が、後にマルクス主義といわれるようになる一大思潮の出発点となるのである。(p.102)
◯ここには人間の生は、人為の及ばぬ大自然の循環の只中にあることを前提するという、エコロジカルな視座がある。また労働とは、あくまで大自然の循環に則って、これを撹乱させない範囲で行なわれるべきだという、エコロジー的に適切な規範が含意されている。これだけでも、マルクスの環境観の現代的アクチュアリティが伺える。人間はあくまで大自然の過程の只中にある存在である。人間は決して自分を自然世界の中心だと驕り高ぶるべきではない。ここまで明示的な文言はマルクス自身にはないものの、理論の方向性自体はこうした謙虚な目線での人間の対自然環境観を含意しているのではないか。(p.119)