『世界哲学史8』(ちくま新書)所収の、千葉雅也立命館大学大学院教授執筆の第3章「ポストモダン、あるいはポスト構造主義の論理と倫理」を読む。
◯ポストモダン(ポスト構造主義)思想においては、「ダブルバインド思考」が特徴であるということ。これは、対極的な二つの原理=二項のどちらかが正しいと決着がつくまでディベートを行なうのではなく、「二項を二重化してどちらも保持し、その間の緊張関係において思考する、ダブルバインド的状態を意図的に引き受けること」である。いったいに論理学上の矛盾に対しては、三つの対処があり得る。
1)ヘーゲル的な弁証法によって矛盾が総合される。
2)論理学的に、矛盾が爆発になる。
3)いずれでもなく、否定関係にある二項のダブルバインドを思考する。
3が、ポストモダン思想の特徴ということになる。
◯そもそも先行する構造主義の考え方では、現実の事物のあり方は、ある構造を成していると見るのであり、その構造とはプラトンのイデアのように実在するものではないが、具体的・特殊的なものでもなく、抽象的・一般的なものであるという、中間的位置にある。つまりここにおいても「未完了」の論理が重要であったのである。その構造のエレメントである二項対立自体におけるヴァーチャルな二重性を問題にするダブルバインド思考が、デリダの仕事を代表として生まれてきたのである。
◯『ドゥルーズ、デリダ、フーコーにおいても二項対立的な概念群があるが、それは単純に「善い項╱悪い項」には振り分けられないダブルバインドを成す。そのように概念を取り扱うことは読者に辛抱を強いるのだが、それに耐えること自体がポスト構造主義(ポストモダン)の倫理–政治的意義であると言える』。
◯ポストモダン思想が実質的に目指すのは、『規範からの逸脱を考慮しながら、人々を機械的にではなく動的な「信頼」形成の運動において共存可能にする「準安定的」な社会状態をたえず再構成していくことである』。ポストモダン思想を相対主義だと批判し、ファクトおよびエビデンスに立脚した社会批判を主張する「ポスト・ポストモダン」の主張は、「一定の必要性」は認められるにしても、「つねに不安定である意味の次元を厄介払いし、他の人間への機械的で残酷な対応を正当化する」、歴史的に省みればナチの科学主義と同根のものとなり得よう。
◯(ハイデガーのダス・マン=頽落した人間にも結びつく)知覚と習慣で生きる「動物」(東浩紀)、二項対立の手前、かつ二項対立の脱構築の手前にいるような、つまり非哲学的な人間である「普通の人」(ラリュエル)をめぐって、ポストモダンとは『ダス・マン的頽落を、頽落としてではなく「平時」のしかるべきあり方として肯定することである。言い換えれば、肯定されているのは「世俗性」である』。
◯「いまなおポストモダン的なものに拘泥するというのは、個の徹底によって共へと通じる秘密の通路を信じることに他ならない」と最後に結んでいる。ポストモダン思想が、哲学というより、ポエムであるまいかと疑える言葉ではある。