自然(じねん)について

 竹内整一東京大学教授の『「おのずから」と「みずから」ー日本思想の基層』(春秋社)は、日本的「自然(おのずから)」の思想伝統について、そのプラスマイナス両様にわたって考察した、思想史の力作である。丸山真男や相良亨の仕事を継承して、この論考ではとくに近代日本の文学者・思想家の思想的格闘に深い理解と共感を示し、読んで勉強になった多くの指摘をしている。竹内氏の姿勢は、たとえば柄谷行人氏のように、日本的「自然」には他性の契機が不在であるとして、共同性やナルシズムのなかで閉じられた同一性を作ってきた伝統を西洋近代の基準で裁断するのではなく、日本思想の最も良質の成果について、その「おのずから」にこそ他性の契機をとらえ、あくまでも「みずから」でしかない「みずから」との緊迫した関わりの視点で追求しようとしている。素人の独断で言えば、これは道元禅師が「天台本覚論」の仏性論と対決して以来の、いわば日本思想の常に古くして新しい問題なのではないか。
……むろん、問題はその先に、そうした自然の他性(「おのずから」)が、なお同時に自己の自己性(「みずから」)に相即するというところにあるのであるが、それは、自然を自己と二元論的に対立する他者と措定することでもなければ、一元論的に自己と同一化することでもない。問題はまさにその「あわい」にあるのであり、その「あわい」をどう思想化し、ロゴス化しうるかということである。
 考えてみればそれはつまるところ、この自己という人間存在が自然でありつつ、かつ、ないという、すぐれて普遍的な「あわい」の問題でもあるのであるが、ここではその特殊日本的な思想表現が問われているのである。……
 その「あわい」での思想表現の軌跡を中世の世阿弥、近世の伊藤仁斎、明治期の国木田独歩柳田国男清沢満之正宗白鳥などの仕事と作品を通して探っている。どの章も学ぶことが多い。
 能芸論で強調する「面白や」とは、無常を認識しながらも「迷う心」があることそれ自体の上に語られたものであるという。それは、「おのずから」の「成就」のリズムとして感取される。
……つまり、その「面白や」ととらえる視線は、そうした「迷ふ心」の波立ちを捨象して、その奥あるいは外にあるような静寂の真如・実相なるものを遠望しているのではない。そこに想い見られる真如・実相は、「迷ふ心」の波立つこの世界の内で、それらが所詮「迷ふ心」であると認めながらも、なおそのままにそれらを収めとるようなものとして捉えられている。「面白や」とは、そうした位相での真如・実相の発見・感得であろう。……
 個人的には正宗白鳥の章に、感動するところが多くある。正宗白鳥は死にこだわり、死についての「真実を追求して本当の所に達した揚句の思想」なるものをつかんで死にたいと願望していたが、死を前にして、所詮死および死後のことなど「不可解」であって、「自分で偉そうな考へをもたないで、そこらの凡人と同じやうな身になったところに、ほんたうの天国の光がくるんぢゃないかといふことを感じることがあるんです」の境地となったという。
……死の数カ月前の講演の言葉である。「日本製ニヒリスト」の代表とまでいわれた白鳥のはいた最も「肯定」的な言葉であり、臨終帰依といわれた彼の「アーメン」がここに発せられているのはいうまでもない。……

「おのずから」と「みずから」―日本思想の基層

「おのずから」と「みずから」―日本思想の基層

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のモチノキ(黐の木)の実。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆