なるほどのイスラーム観


文藝春秋』12月号に、イスラーム研究家の池内恵(さとし)東京大学准教授が「若者はなぜイスラム国を目指すのか」という論稿をよせている。めずらしくこの雑誌を購入したのは、これのみを読むためである。池内恵氏の短い論評はFacebookで読んでいるが、まとまった論稿を読むのは初めてである。雑誌代880円をくまざわ書店津田沼パルコ店に払って、損はなかった。勉強になった。
 日本人はなぜ「イスラーム」を誤解するのかについて、4点挙げている。1:「現代のイスラーム世界では決して主流ではないどころかほとんど忘れられている部分」に注目した、日本の偉大な思想史家・哲学者井筒俊彦イスラーム探求に影響されていること。井筒俊彦は、イスラーム思想史のなかの神秘主義ギリシア哲学にのみ着目し、とくに神秘主義の中の、シーア派の特定の潮流につながっていく面だけを強調している。法学の面を軽視していて、「井筒教」追随者らが「イスラーム法のような外面的規範は本来のイスラーム法に反する」という荒唐無稽な議論に到達してしまっている。2:戦後平和主義の戦争観・国家観をイスラーム教に投影していること。「イスラーム教は平和の宗教であって、本来は軍事とは関わらない」というイスラーム理解は、イスラーム教の実態とは異なる。イスラーム教とイスラーム共同体が優越した軍事的・政治的な支配関係に定着した限りでの、正しい平和の訪れを考えているのである。
 3:西欧のイスラーム認識を理解できずに曲解したこと。「格好の例」として、社会学大澤真幸氏が、ミヒャエル・エンデの小品集『自由の牢獄』については、『神への全面的な帰依によって自由意志を放棄する代わりに確固たる「目的地」を持つ安心感・幸福感を得るイスラーム教と、人間理性と自由意思によって未知の世界を常に切り開いていく西洋近代を対比させ、後者を改めて擁護したものと読むのが順当』だろうが、大澤氏は、「過剰な自由は、言わば人を窒息させてしまうのだ。自由は、むしろ拘束をこそ前提にして可能となる」という教訓を読みとるべきと主張し、みずからが享受している自由と権利を不問にして「西洋近代が培ってきた自由主義を軽率に放棄して見せるモノ言い」をしている。4:「現状超越、現体制否定、欧米コンプレックス、漠然とした破壊・終末願望といった雑多なネガティブな感情の憑代・はけ口として用いられたこと。」左翼イデオロギー新興宗教の勢いが失われ、いま「グローバルな反欧米の運動としてイスラーム教の過激派の主張に現状超越論者たちの期待が集まっている」。危うし危うし。
 http://chutoislam.blog.fc2.com/blog-entry-225.html(「中東イスラーム学の風姿花伝」)
 https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10201992410450887
  (「Facebook池内恵氏の10/10の記述」)

 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20140906/1409976310
  (「孔雀とコブラ:2014年9/6」)