宗教教育について

 社会学橋爪大三郎東京工業大学教授の伝えるエピソードが興味を引く。友人のところへ、ある深夜ロンドンの「地球環境の国際会議」に出ていた役人から本省へ電話で、「stewardship」という語について問い合わせがあり、そこでわからず、教授に質問の電話があったのだそうだ。「stewardship」は「管理責任」と訳されるが、神が世界を創造したあと、その管理を人間に任せたという聖書の記事が背景になっている。要するに、人間が自由に自然を・改造していい(だから責任もある)という考えで、ここから品種改良や捕鯨禁止や生物の多様性保護といった考え方が出てくる。日本の一流官庁や国際交渉の担当者が、欧米社会の行動の根底にある哲学・宗教について、基本的なことを知らない。日本人は、人間も自然の一部と考えるので、「stewardship」の考え方はなじまない、文案から外してくれ、と交渉することも考えつかなかったと。(橋爪大三郎・98東工大文系「宗教社会学」授業のレジュメより)

「宗教教育」として(1)宗派的教育、(2)宗教(一般)知識教育、(3)宗教的情操教育の三つが挙げられるとすれば、このエピソードは、(2)の知識教育の必要性を示していよう。(1)の宗教教育は、「日本国憲法」第20条第2項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と、「教育基本法」第15条第2項「国及び公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他の宗教的活動をしてはならない。」との規定から、公立の学校教育においてはあり得ない。しかしことはそうかんたんではないだろう。現実の教育実践の場でこの三つの領域が截然と分けられるかどうかは、教育担当者の心構えのみではすまない局面もあるだろう。
 シェフラー(I.Scheffler)の「三つの図式」を基に、実践としての宗教教育の可能性を追求した小山一乗氏の論文『国際理解の基礎としての「宗教の教育」の「教授」概念検討』(『仏教経済研究・第17号』昭和63/4所収)が、問題の根本を洞察しているので、依然として有効な考察となっている。
「三つの図式」とは、動詞「教える(teach)」と「告げる(tell)」を対比させ、それを三つに範例化したものである。A:XはYに〜だということを告げる。B:XはYに〜だということを教える。C:XはYに〜するように告げる。D:XはYに〜するように教える。E:XはYに〜の仕方を告げる。F:XはYに〜の仕方を教える。この六つである。「告げる」とは、そもそもは学習することを意図しない行為であり、「教える」とは結果・効果はともかく、学習することを意図した行為である。Bの「XはYに〜」のところに、「事実的言明文」が入る場合は、「行動規範・行動パターンの獲得を学習の不可欠要素とする行動的解釈」は不可能で、この教授(教育)にはあいまいさがない。「stewardship」について教えればよいわけである。ところがここに、たとえば、「聖なる超越的存在は畏れ敬うべき」などとの「規範的言明文」が入ると、「聖なる超越的存在は畏れ敬うべき」と志向した行動パターンの獲得を期待しているかのような、つまりDの範例のような行動的解釈も可能となり、あいまいさが残る。
教育基本法」第15条第1項「宗教における寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。」との理念を具現すべき「教授概念」が、宗教(一般)知識教育および宗派的教育とどう異なるのかは、解決済みの問題ではないのである。小山一乗氏がこの論文でかつて述べているように、『従って、教授者Xは、学習者Yに対して、その「教授」が、「事実的言明文」でか、「規範的言明文」でかの明示徹底、「行動的解釈」でか「非ー行動的解釈」でかの周知徹底が、必要不可欠条件となる』。
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の薔薇カクテルorコクテール(Cocktail)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆